来しかたの夢と覚むる現の交叉/小森陽一
真夏の夜の夢ならぬ、野分の後の夜の夢とでも言うべき、数夜の物語である。台風で増水した多摩川の河川敷から、一人の路上生活者がヘリコプターで救出される映像が、テレビのニュースで流される。その「宙吊りにされる姿」に、小田明子は「十字架の上のイエス・キリストを思い浮かべ」る。次の瞬間「男性の顔がアップにな」り、一〇年前に離婚した元の夫の澄夫であることに明子は気づかされる。一瞬の「夢を見ているよう」な出来事から、この小説ははじまっていく。
澄夫と再会した明子は、自分の知らないところで息子の浩史が父親と会っていたことに衝撃を受ける。また明子の勤め先である大学の図書館で、一週間前から嘱託職員として働くようになった山川洋平とも、澄夫や浩史が特別な関係にあったことを、事後的に彼女は知らされることになる。結婚しているときには、決して語られることのなかった澄夫の過去が、思いもかけない形で明らかになっていく。
この小説では、現在進行形の出来事の連鎖の中で、澄夫の隠された過去が次第に明らかになっていく過程と、明子が想起する過去とが交叉させられていく。過去の記憶を蘇らせることは、外界からの現在時の刺激を遮断して行われるのであり、「夢を見ている」ことに相似する。同時に夢を見ることは、現実の過去の記憶を改変することであることも私たちは知っている。小説の言葉は夢と現を往き来する。
過去の出来事を明子が想起する拠点の一つとなるのは、学生時代に澄夫と出会った頃。その記憶の一部は、明子の母方の伯父の息子である進一とも共有されている。進一との結婚の可能性を明子が夢想しつづけているあたりで、彼女やその家族にも「交叉いとこ婚」的な、親族集団間の成員を交換することとしての結婚観が当時の日本社会に残存していたことも見えてくる。同時に「ヘルメットをかぶるのが、嫌」というところに明子と澄夫の結びつきの要があったことが示されるので、二人が「全共闘世代」であることを読者は理解する。
また「この年の春にはベトナムのソンミ村で米軍による村民虐殺という忌わしい事件が起きていた」、「この事件は、翌年報道された」という、明子の記憶に即した地の文から、二人の出会いが、一九六八年という特定の年であったと確定できる。読者自身が自分の生きた同時代としての記憶を、明子の過去に交叉させることで、「四十年」前から現在に至る日本社会とその中で生きた人々の在り方が総括されていくのである。
もう一つの記憶の拠点は、離婚した「十年前」。夫や息子と家族で住んでいた私鉄沿線の団地に、かつて洋平も居り、彼の母親冬子が澄夫と関係を持っていたという衝撃的な事実に明子が直面するのは、不用意にその団地を再会の翌日訪れてしまったからだ。
明子の「何もかもが十年前と同じ」という印象と、「バブルが頂点に達した時にこの分譲中の3LDK六千万円の団地の一室を二十五年の最長ローンで買いたいと思ったのは、ここが恐らく二年を待たずして八千万円台になるだろうといわれていたせいもあった」という悔恨の念との対比には、この世代の生きた時代の浮き沈みが刻まれている。「バブルがはじけておよそ十五年たった今」、「ここは二千万円台になった」という記述には、この国の「失われた二十年」が刻まれている。
離婚をし、「団地の一室」を出て、家族が離散し、独居し職を失った元夫が、多摩川河川敷に居住する路上生活者になっても不思議ではない状況が、この小説が「ちくま」に連載されていた、二〇〇七年末から〇九年にかけて一気に現象していたのである。「団塊の世代」と堺屋太一から言われても、「そのままおとなしく使って」きた者たちの苦渋の総括が、新宿のはずれのうらぶれた飲み屋で深夜の酒宴よろしく行われていく。はたして総括はなされたのか。
最も恐いのは、この小説の現在時が二〇〇八年であれば、「腕時計」の指す「九月十日」の直後に、リーマンショックを引き金として、世界大恐慌がおこり、作中人物たちの将来の展望など全部吹き飛んだかもしれないという設定だ。
(こもり・よういち 東京大学大学院総合文化研究科教授)
『時こそ今は』 詳細
太田治子 著
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