瞬間を生きる技法/古東哲明

 エベレスト初登頂から、すでに半世紀。ヒラリー卿とテンジン氏以来、その頂きに立った人はもう、四千名以上に達します(二〇〇九年現在)。二万五千ドルのロイヤリティを支払えば、いまではだれでも、エベレスト登山を楽しめる時代です。北極や南極はむろん、月面にまで人の足跡はつきました。地上にも地球近隣にも、未踏地はなくなったわけです。
 ですが唯一の未踏地があります。それが瞬間。どなたもの刻一刻の生命の息吹のことです。こればかりは永遠の未踏地です。
 おおげさに言うなよ。瞬間なんてありふれたできごと。それこそ毎瞬に味わっている。はかなく過ぎゆくあの時間切片にすぎまい。よく識ってるさ。そう、反論なさるかもしれない。
 ならばこころみに、目前の光景に目をそそいでほしい。緑葉のきらめき、コーヒーカップ、ストーブの炎、通り過ぎる人々、暮れなずむ西空などなど。それぞれの生活現場に、いろんな光景が広がっていることでしょう。それを一分間、いやほんの十秒でいいから、静かに見つめていただきたい。
 あるいは音でもいい。周囲のもの音に耳かたむけていただきたい。車の走行音、近所で遊ぶ子供たちの声、小鳥のさえずり、あるいは軒下の雨垂れの音など。変哲もない、いつもの物音かもしれませんが、それで結構です。一分間、いやほんの十秒間でいいから、聞き続けてください。
 いかがですか? 意外に難しいでしょう。集中力はすぐに途切れ、想いは別のところへさ迷っていきませんか。そこへとしっかり向けたはずの意識や感覚はいつの間にか、どこかよそへ旅だってしまうでしょう? 今この瞬間に立ち会うことが、どんなに難しいことか、ご理解いただけよう。だからこそ、あえて「瞬間を生きる技法」が、必要にもなるのです。
 それにしても、なぜ瞬間なのか。はかない生のひとこま。所詮は時間の最小単位。そんな瞬間に佇むことが、どうしてそんなに大切なことなのか。
 たしかに瞬間は文字どおり瞬く間、一瞬のはかない生起です。でも想い起こしてほしい。忘れられない体験とか、充実した時は、いつも瞬間の出来事ではなかったでしょうか?
 たとえば、心地よいそよ風が吹く夏の午後。日向ぼっこするトカゲの尻尾の一震え。ブーンとうなる虫の羽音。さわさわと渡る風にそよぐ森のきらめき。秋の日にフッと漂う金木犀の香り。ゴーンと一撞きの除夜の鐘。それらは、じつに小さな時の間、かすかな一瞬の目撃です。が、なんと微細な陰影にあふれた光景でしょう。生き物たちのいのちの鼓動が、今にも聞こえてきそうです。瞬時にすぎぬ生の一コマが、どんなに奥行きにみち、多様な意味をはらんで移りゆく出来事であるか、肌身で実感なさるはずです。
 そのときもはや、通常の時間観念からすれば、まるで微少なこの瞬間のことを単純に、儚いとか、時間の最小単位にすぎぬと言ってすますことなど、できなくなるはずです。
 考えてみると、大切なことに出くわすのもまた、ほんの瞬間のことです。いわゆるユリイカ(a-ha)体験。驚きの色に染められながら、なにかの真相や深い直観に襲われるこの体験もまた、瞬間(十分の一秒間)に閃くできごとです。あの人との運命的な出会いも、あるいは突然の別離の哀しみもまた、そうだったはずです。人生の岐路でひきおこる大切なできごとは、きまって瞬間の生起です。「誕生の瞬間」と申します。「息をひきとる瞬間」ともいいます。瞬間という時以外に、人は、生まれることも、死ぬこともできないほどなのです。
 そんな瞬間の深さや輝きについて、あるいは瞬間を生きる技法について、一書をしたためました。瞬間にはすべてがある。少なくとも、大切なことは全部でそろってます。人生の意味も、美も愛も永遠も、なんなら神さえも。どうぞご賞味あれ。
(ことう・てつあき 広島大学教授)

『瞬間を生きる哲学 〈今ここ〉に佇む技法』 詳細
古東哲明 著

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