『この女』と「想定外」な世界/生田武志
大震災による混乱の中、彼の原稿は郵送先で書類の中に紛れて所在不明となる。その原稿がようやく発見され、彼の友人にその事実が伝えられる、その場面から森絵都の小説『この女』は始まる。
読者は『この女』の中で、彼、甲坂礼司の小説「この女」を読むというメタ構造に入り込む。その小説の中では、異常な酷暑、新卒者の採用率低下、そして「自民党は与党復帰をかけて、今頃、必死だ」という話題が語られる。しかし、この「震災」は実は2011年ではなく1995年の阪神・淡路大震災で、自民党の野党時代とは1994年の羽田内閣期を指しているのだ。この社会状況のシンクロは、(それが偶然だとしても)読者に1995年と2011年の間にある16年という年月とその同時性をさまざまに考えさせるだろう。
小説で語られるのは、大阪の釜ヶ崎の簡易宿泊所(ドヤ)に住み、日雇いをして生活する20代の青年が、知人の紹介でホテルチェーン社長夫人の生い立ちを小説として書くことを300万円で頼まれるというストーリーだ。しかし、彼と数歳しか年の違わない「この女」二谷結子は、「父は著名な政治家で、私はその落胤」「父は心不全で死んで、母は心臓病で入院、私は叔母のところに預けられた」と、次々と嘘を繰り返す。しかし、そこで共通するのは少女時代の彼女の孤独だった。彼女は「一回寝たら、もうそれだけで家族になれた気がするやんか」と多くの男とセックスするが、同じ男とは二度しない。なぜなら「家族には欲情せえへん」からだ。じつは彼女は、日雇労働者の父親が亡くなったあと、母子でパチンコチェーンのオーナーの「愛人寮」で暮らしていたという過去を持っていた。彼は、強さと脆さの同居する「この女」に翻弄されながらも徐々に惹きつけられていく。
2人の関係が進展すると同時に、彼女のことを「頭の軽いアホ女」と言う「前の旦那」との子ども、興信所を経営する「チンピラそのもの」の風貌の弟、そして野宿になった日雇労働者を部屋にひきとって介抱する元ヤクザで元活動家の男などが登場し、関西弁一色の猛烈なスピードの会話の中、激しく「濃い」キャラクターたちの生き様が極彩色で描かれていく。そして、物語は後半で、すべての人物を巻き込む巨大な筋書きを展開し始める。二谷が妻の人生を描く小説の作成を依頼したのは、二谷結子の母の愛人の醜聞をあばくためだった。二谷たちが有力政治家たちと組み、釜ヶ崎の再開発計画のため、有力者であるその愛人が邪魔になったのだ。いわば、彼の小説は「釜ヶ崎から日雇労働者を一掃する」計画の一部に組み込まれていた。それに気づいた彼は、この計画を阻止するため、ある行動を起こそうとする……。
主人公というべき甲坂礼司も、ある種の障害を持ちながら「生きづらい何かを抱えた人間に対して寛大な土地」である釜ヶ崎で生き場所を得た人間だった。しかし、彼は二谷結子との出会いと衝突から、小説の最後で「幸せ」を一瞬かいまみる。そこには、人間の再生の一つが描かれつつあった。しかし、甲坂礼司は直後の震災によって「行方不明者」として消息を絶つ。
突然中断された物語は、行き場のない悲痛な響きをわれわれに伝える。と同時に、震災による「行方不明者」が膨大にいるいま、この小説のリアリティが現実とどこまで対抗し得たかということも問われるだろう。例えば、釜ヶ崎は現実には小説が想定した再開発はされなかったが、甲坂礼司が暮らしていたドヤは目端のきく経営者によってこぎれいな「格安ビジネスホテル」となり、いまや世界中の外国人に「人気の宿泊スポット」へと変貌した。それは、釜ヶ崎にいるわれわれにとっても「想定外」だった。そして、「想定外」という言葉が日本全国で過剰に使われるいま、『この女』というフィクションが人間の「幸せ」「再生」にどこまで迫ったのか、それは読者ひとりひとりがこの本を読むことで確かめることになるだろう。
(いくた・たけし 野宿者ネットワーク代表/評論家)
『この女』 詳細
森 絵都 著
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