文学の再発明/都甲幸治
何の予告もないまま突然、愛する人を失ってしまう。結婚して数ヶ月しか経たない夫が銃で自殺し、妻のローレンは人里離れた貸家に、たった一人でとり残される。いや、本当に一人なのだろうか。この家にいるかぎり、夫の気配は常に彼女の周りにある。「そして今、彼は煙となった、レイは。空中に漂うもの、霧のようなもの、あらゆる空間にいずれ染み込んでいくものに」。それでも生き続けることに意味はあるのだろうか。「彼女はレイの煙とともに消えてしまいたかった。死んで、彼と一体化したかった」。
その答えが見つからないまま、彼女は細々とした家事に没頭し、自分の体を入念に鍛え上げる。「計画を立てることで、時間を組織化する、自分が再び生きられるようになるまで」。彼女は文明の時間の流れからいったん身を引き剥がす。天気予報を聞くのをやめ、自然の天候をただ受け入れ味わう。インターネットでフィンランドの何もない空間を見つめ続け、意識を地球に溶け込ませていく。彼女は何をやっているのか。自分の中の命にフォーカスすることで、生き延びるためのトレーニングを行っているのだ。
それでも何かが足りない。もちろん誰もいない片隅にうずくまり、傷が癒えるのを待つのは正しい方策だ。だが一人きりの人生に意味を見出すのは難しい。そして答えは、思いがけない形でやってくる。
確かに、夫が生きているときも壁からがさがさ音がしていた。だがそれは、たまたま迷い込んだ動物だろうと思いこんでいた。ある日彼女は夫との思い出の残る寝室で小さな男を見つける。朦朧とした表情を浮かべた、大人とも子供ともつかない身体を持つ彼は誰なのか。
名前も名乗らず、通常の思考力さえ持ち合わせていないらしい彼を、しかしローレンは受け入れてしまう。あまりにも寂しかったからか。それだけではない。ある意味で、彼は死んだレイそのものだったからだ。
実は男には特殊な能力があった。自分の身体器官を変容させることで、他人の声を、息づかいにいたるまで精密に複製することができたのだ。まず男はローレンの前でローレン自身になる。「最初は実に困難で、ほとんど超自然的だった――他人の声、彼の声に自分の声を聞き取ること」。
次に男はレイになる。ローレンは感じる。「これは死者との交信とは違う。生きたレイだ、この会話を通して生かされたレイ」。だがそんなことがありえるのだろうか。むしろ男は、ローレンが作り出した幻想ではないのか。そう解釈できなくもない細部は多い。たとえば、ローレン以外の人物が男を目撃することは一切ない。突然現れ、跡形もなく消え去ることを彼は繰り返す。それでも彼の声の録音テープがあるではないか。だが実は、すべての声色をローレンが作り出している可能性は残る。
重要なのはそのことではない。どんな形であれ、男がローレンの目の前にいて、再び他者へと自分を開いていくための技術を伝える、ということが肝心なのだ。そして男から手渡されたこの英知こそ、ローレンが再び生の世界に戻ってくる鍵となる。
男は語る。「月光を意味する単語は月光」。考えてみれば、これこそが文学の定義なのではないだろうか。月光という言葉がテクストの上に置かれたとたん、その単語は青白く光り始める。通常とは異なる時間の中で、存在しないものを記号の力で存在させること。それは、存在と不在のあいだに広がる豊かな空間だ。そしてまた、存在するのとは別の仕方で死者を蘇らせ、生者と死者との対話を開き、知恵の伝達を導くための器でもある。
『堕ちてゆく男』で9・11テロの死者たちについて語り、『ポイント・オメガ』や『アンダーワールド』では映画を加工することで人工的に引き延ばされた時間について語るデリーロは、常にこうした、喪の器械としての文学を再発明しようとしてきたのではないか。確かにこれは物語の古代的な機能なのかもしれない。だがそれを現代文学のあり方として蘇らせたところにデリーロの独創性はある。今やアメリカ文学の第一人者である彼の思索はかぎりなく深い。
(とこう・こうじ 翻訳家/早稲田大学准教授)
『ボディ・アーティスト』 詳細
ドン・デリーロ 著 上岡 伸雄 訳
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