いずこの土地の土と終わらん/菊地章太

 その人は、おさないころにお父さんをなくした。
 それからはお母さんとふたりきりで暮らした。実家にいられない事情でもあったのか。そのうちお母さんも亡くなった。お父さんのお墓がどこにあるのかわからない。いっしょに眠らせてあげることができないでいた。
 その人自身、中年を過ぎても、おのが居場所を見つけることができなかった。住む家もさだまらぬ身の上だった。いつか人づてに聞いて、お父さんのお墓が知れたので、やっとお父さんとお母さんをひとつところに葬ることができた。ささやかなお墓をつくることができた。
 立ち去ったあと、雨が降りつづいた。いつしか大雨となった。聞けば、お墓の土はくずれてしまったという。離れた場所にいる身では、どうすることもできなかった。だまって聞いているうちに、涙がぽたぽた落ちてきた。
 ──その人の名は、孔子である。あの『論語』の孔子さまである。この話は『礼記』に出てくる。がちがちの儒教の古典ではないか。もっとも、がちがちにしてしまったのは後世の人々だが。もとの文を読みくだすと、こんな一節がある。
「いま丘や、東西南北の人なり」
 丘は孔子の名である。孔子は晩年なおも流浪の身であった。流れ流れて、落ちゆく先は、……そんな歌を思い出す。
「流浪の旅」、大正十年の歌である。映画『海峡』(一九八二年)のなかで、青函トンネル掘りの森繁久彌さんが歌っていた。


 流れ流れて 落ちゆく先は
 北はシベリア 南はジャバよ 
 いずこの土地を 墓所と定め
 いずこの土地の 土と終わらん


 さて広い世間を見わたせば、葬りのありようもいろいろになってきた。町なかでは墓地はとても手に入らない。コインロッカー式の納骨所が駅前にできている。墓をついでくれる人がいない。散骨や自然葬も少しずつ普及しているようである。
 それでもなかなか変わらないものもある。
 ちくま新書から新刊の拙著は、そのひとつである位牌に焦点をあてた。位牌は仏壇にあるのだから仏教かというと、そうとばかりも言えない。もとは古代の儒教にさかのぼる。道教ともつながっている。いずれであれ個々の宗教の枠からはみだしてしまった。けれど、そんなことはおかまいなしだろう。まぶたに浮かぶ人がやすらっている。そんな思いを、この小さな木片が背負ってきたのだから。
 柳田國男の『明治大正史世相篇』に出てくる話がある。師走の町を雨にぬれながらとぼとぼ歩いていた年寄りが、警察に保護された。かかえていた風呂敷包みから、位牌だけが何枚も出てきたという。
 つめたい雨のなかで傘も持たずにいたこの人は、終の棲家を得ることができなかったのか。何もかも手放してなお、位牌だけはなぜ、手放すことができなかったのか。
 ときは現代、原発事故で避難所生活を余儀なくされている方々の一時帰宅がかなった。そのおり、家から持ち出したもので何より多かったのが、家族のアルバムであり、位牌であったと報道されていた。
 先ほどの「流浪の旅」の二番は次のとおりである。


 きのうは東 今日また西と
 流浪の旅は いつまでつづく
 はてなき海の 沖の中なる
 島にてもよし 永住の地欲し
(きくち・のりたか 東洋大学教授)


「流浪の旅」作詞/作曲 宮島郁芳・後藤紫雲 日本音楽著作権協会(出)許諾第1107794-101号

『葬儀と日本人──位牌の比較宗教史』 詳細
菊地章太 著

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