リスクに立ち向かうために「知る」ことの力/鷲谷いづみ

 柳澤桂子さんのご著書を拝読するのは、本書が初めてであった。その広い人気の理由を、垣間見ることができたような気がする。科学と思想の間の間合いのとり方、感性と経験を大切にした平易な語り口は、読者にとってたいへん明快で心に染みるものなのだろう。
 本書は、そのサブタイトルにあげられている「人類は生き残れるか」という、読者として想定される若い人たちにとってたいへん重いテーマに、まさに正面から直球を投げ込んでいる。
「生き残れるかどうか」の瀬戸際に人類を追いやっている元凶は主に二つ。一方は、日本では地球「温暖化」とよばれている気候変動であり、もう一方は、福島第一原子力発電所の事故が四ヶ月を経ても収束の見通しが立たず、人々が放射能の恐怖におののきながら暮らさざるを得ないという事実が重大なリスクを否応なく肌で感じさせてくれている「原子力利用」である。両者の間には、前者の解決のためには後者を強化せざるをえないと多くの人々が思いこまされているという関連性がある。
 前者については、主に、IPCCの報告書を引用して、化石燃料をこのまま使い続け、森林などの植生を損ない続けるともたらされる広範なリスクが簡潔に紹介されている。後者のテーマについては、放射性物質を実験で用いる機会が多く、放射線のDNA損傷作用について「実感」をもつ多くの生物学研究者に共通する問題意識を土台にした論が展開されている。
 もう一方の問題に関しては、フクシマ3・11以来、原子力利用関係の研究者や一部の医学関係者は、安全性を強調する情報発信をしてきた。それに対して、自らマウスの先天性異常の実験研究を放射性物質をつかって実施した経験を持つ著者は、放射線がDNAを傷つけ容易に突然変異を引き起こすという生物学の基礎的事実を重視する。分裂中の細胞は、DNAの凝縮がほどかれて細い糸のように伸びるため放射線には特に感受性が高い。成長期の子どもたちや胎児への影響を特に心配しなければならないのはそのためだ。「放射能は生物とは相容れない存在」であるというのが著者のもっとも端的なメッセージだろう。
 さらに、原子力発電のもっとも大きな欠陥は、放射性廃棄物の処理であり、安全な処理技術が確立していないという問題についても注意を喚起する。原子力発電をつづけている限り使用済み燃料はたまる一方だ。日本では、現在、青森県六ヶ所村に再処理工場をつくり使用済み核燃料の再処理が試みられている。再処理では、大気へも海へも、原子力発電に比べていっそう多くの放射能が環境中に放出されているという事実も指摘する。
 このように、原子力発電がいかに危険なものかを詳細に説明した後、「私の個人的な推測では、しばらくの間は食品や大気中の放射線量を気にしても、この事故が収まれば、また原子力発電所の新設が始まり、既存の発電所の運転はそのままつづけられるだろうと思います」との記述がある。これはおそらく、筆がすべったのであって、著者の本意ではないと思う。読者として想定される若い人たちにとって大きなリスクになりうることを知りながら、取り除くための努力を惜しむことはありえないからだ。しかも、現在、若い世代に多くの「負の遺産」を残す原子力発電をいかにして早急に止めるか、その必要性と戦略に関する議論がすでに活発化している。例えば、岩波書店『科学』七月号には、特集「原発のなくし方」が組まれている。文理の幅広い分野からの論文・論考が掲載されており、資料も豊富で読み応えがある。止めれば経済的に耐え難いことが起こるという喧伝も安全神話と同様、利害関係者が意図的に流しているものだということがよくわかる。
 人類の近未来を危うくしている「もの」に気づいたものが、それを人々に知らしめ、リスクを取り除くために尽力することなしには、人類は、生き残ることができない。本書が、その「知らしめる」役割の一端を担うことを願いたい。
(わしたに・いづみ 東京大学大学院農学生命科学研究科教授)

『いのちと環境──人類は生き残れるか』 詳細
柳澤桂子 著

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