月光を浴びて、音吉がそこに/平松洋子

 あれは三年前、寒風吹きすさぶ師走の夜だった。都心にしてはめずらしく電灯のないまっ暗な坂道を下りながら頭上に黄金色の月が浮かんでいたのをはっきり覚えているのだから、今となっては奇妙な符合としかいいようがない。坂道の途中にある中国料理店で、向かいの席の吉田篤弘さんは話しはじめた。
「ぼくのひいおじいさんはむかし、銀座の木挽町で鮨屋をやってたんです」
 ひいおじいさんが、鮨屋を、木挽町で? わたしは碗の底の紹興酒を飲み干し、膝を乗りだした。
「音吉といいます。その音吉がじつは」
 父方の話、母方の話、淡々と語られる「事実」は東京を縦横に駆けめぐる無類のおもしろさ。「それで、それで?」、夢中になって話の先をねだった。以来わたしは銀座の夜道を歩くときなど、しばしば足がすくむことがあった。あれは木挽町の暗闇から抜けでてきた音吉の後ろ姿ではないか。下駄をからんころん、懐手などしていましも都内某所へ出かけてゆくところではないか。
 このほど一冊の本『木挽町月光夜咄』が手もとに届いたとき、わたしは記憶のなかからあの師走の黄金色の月を手繰り寄せ、しばらく立ちすくんでしまった。まるで音叉が空気を震わせるように、遠く近くさまざまな過去が共鳴し合っている気配。題字の背後には、月光を浴びる音吉の佇まいがあった。
 このエッセイ集のとんでもないおもしろさを、いったいどう表現したものか。吉田篤弘さんはこれまでに数々の魅力的な物語を紡ぎだしてきたけれど、それらすべてと繋がりあっているような、ぜんぶが入れ子になっているような。つまり、日常に端を発したエッセイでありながら、虚構も現実も過去も現在もゆらゆらと絡みあってここにある。
 やっぱり音吉、あなたがそこにいるからですね(ひとの曾祖父なのに呼び捨てだ)。
 音吉が歌舞伎座の楽屋口の向かいで営んだ小体な鮨屋「音鮨」も、木挽町の名前もすでにない。しかし、吉田篤弘さんの本籍はいまもかつての木挽町にある。ここより父方の血筋を振り返って眺めれば、いちばん手前に自分がおり、その向こうに落語家になりたかった父がおり、さらに道楽者の祖父友吉、また先には鮨屋の音吉がいる。その音吉の気配をかんじながら「いま」の自分を書けば、悠揚自在に現在と過去が通じ合う。またはその逆。音吉を探りつつ書けば、おのずと現在を物語ることになる──まだるっこしい(または野暮な)説明をしてしまったけれど、この時空間のまたぎこそ『木挽町月光夜咄』がもたらす無上の妙味であり、エッセイの企てである。
 しだいに立ち上がってくる濃厚な気配は、まだある。それは東京だ。明治の木挽町。東銀座で印刷業をなりわいにしていた父がむかし住んでいた大塚。こどものころ過ごした世田谷豪徳寺。二十年前勤めていた事務所のある六本木。いまこそ体重を落とさんと毎日張り切って一時間歩く近所の赤堤周辺。読みすすむにしたがって町がむっくり起き上がり、過去も現在もいっしょくたに飲みこんで、東京の地図が勝手に隆起しはじめる。
 三月十一日の震災をはさんで五月某日、晴天。「今日がその日である」と自分に言い聞かせ、いよいよ篤弘さんは家から木挽町までおよそ十二キロを歩きはじめる。環七を越えて淡島通り。渋谷。赤坂。銀座。歩きながら脳裏に去来するのは少年時代のこと、東京の町のこと、明治から四代引き継いでここにいる自分のこと。そして、いまはない木挽町に辿りついたとき、ついに音吉と「出逢う」光景は胸に迫って忘れがたい読後感を残す。
 三年まえの月夜のひとときを昨日のように思いだす。篤弘さんは自分の皿に取り分けた料理をちびりちびり食べる意志のひとになって、言った。減量中なんです、いま。その果敢な挑戦と成果もまた「あけてびっくり」、『木挽町月光夜咄』を彩るもうひとつのお咄。
(ひらまつ・ようこ エッセイスト)

『木挽町月光夜咄』 詳細
吉田篤弘著

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