現実という「丸薬」を飲み込むこと/茂木健一郎
十九世紀に活躍した哲学者、フリードリヒ・ニーチェの著書を、青春時代に愛読した。ニーチェの思想は、いわば、私の血肉になっている。そのあとの人生を、ニーチェの考え方がどれほど支えてくれたかわからない。
今回、ニーチェの書簡のうち、興味深いものを選んで一冊にするという仕事をした。改めて、ニーチェの思想が、困難な現代を生きる上で大切な教えを含んでいるということを痛感する。人生に悩み、生き方が分からないという人は、ニーチェその人の生の言葉に接してみてはどうか。
ニーチェの思想の本質は、どんなに困難な状況でも、まだ自分の力がそれに足りなくても、それを引き受けて生きるという「覚悟」の中にあった。そして、その「覚悟」の苦味の中に、ほんのりと甘い喜びがあるのだった。現場から逃げ出したり、架空の価値をでっちあげたりしてしまうのではなく、あくまでも「今、ここ」を生きるという、凡人の思想でもあるのである。
ニーチェの思想を表す言葉のうち、もっとも世に知られ、またある意味では「悪名高い」のは「超人」なのかもしれない。しかし、「悪名」は誤解に基づいたものだと私は考えている。むしろ、私たちはみな「超人」を目指すべきなのではないか。凡人こそが、超人を目指すべきなのである。
「超人」というと、抜きんでてすぐれているとか、あるいは他人を力ずくで征服するとか、そんなイメージがあるかもしれない。このような誤解は、一つのエリート主義に通じる。
「超人」とは、むしろ、地べたを這う人のことである。自分の能力の限界を知り、それでも諦めない人のことである。ニーチェは、十九世紀のヨーロッパの文脈の中で、たとえばキリスト教の世界観、価値観に人生を棚上げしたり、質入れしたりすることなく、自らの有限性に根ざして主体的に生きることを提案したのだった。
だとすれば、「超人」には現代的な意義がある。今を生きる私たちだって、会社とか、組織とか、国とか、学歴とか、お金とか、肩書きとか、さまざまなものに人生を質入れしてしまうことがある。そんな「罠」に引っかかることなく、あくまでも自分の力で生きるという、凡夫として当たり前の覚悟と智恵を、ニーチェは説いたのだった。
ところで、ニーチェの「超人」思想を理解する上で一番大切な作品の一つが『ツァラトゥストラ』であるが、この中で、男は喉の奥をヘビに噛まれてしまっている。それはとても恐ろしいことだが、仕方がない。ヘビは私たちを取り囲んでいる「現実」というものの象徴であり、それを怖いと思ったり、拒絶していては、私たちは「今、ここ」を生きることができない。
『ツァラトゥストラ』の中では、やがて男はヘビを噛みきり、立ち上がる。立ち上がった男の目は、太陽のように爛々と輝いている。男は超人になったのである。だとすれば、超人とは、自分という存在が置かれている現実の「限定」を受け入れた、覚悟の人のことを指すのであろう。
この部分を読む度に思い出すことがある。恥ずかしい話だが、私は、幼い頃丸薬が飲めなかった。お医者さんに行って丸薬を処方され、「さあ、飲んで」と指示され、水と一緒に飲み込もうとしたが、どうしてもできなかった。
母親に、「この薬を飲まないと死んじゃうと言われても飲まないのかい」と言われても、やっぱりダメだった。だから、いつも苦い粉薬を処方されて、かえって損をしていた。
あれは小学校に上がる頃だったか、ようやく丸薬を飲み込むことができた。その瞬間、喉を水と薬が通っていった感触を忘れることができない。あの時、私は何かを乗りこえたのだろう。
ニーチェの手紙からは哲学者の魂のふるえが伝わってきて、読む者に勇気を与える。怖いこと、不安なことこそ引き受けよう。現実という「丸薬」を飲み込んでしまえばいいのだ。
(もぎ・けんいちろう 脳科学者)
『ニーチェの手紙』 詳細
茂木健一郎編/解説 塚越敏/眞田収一郎訳
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