装幀者のための読書/司修

『忍ぶ川』以来、三浦哲郎さんは自らの家にまつわる重いテーマを書き続け、『白夜を旅する人々』で、ご自身の誕生までの、一家の苦悩を書ききった。
「白夜」の物語を書き終えた三浦さんと何かの酒宴でばったり遭ったのだったが、「『白夜を旅する人々』を完成させて、宿題を全て終らせた」と、嬉しいのでもなく悲しいのでもない笑いを三浦さんはなされ、「これからは新三浦です」と口元を結んだ。
 三浦さんは、「私の白夜」を文字にして見れば「暮れるでもなく、暮れぬでもなく、眠れるでもなく、眠れぬでもなく、ただ深い井戸の静寂に包まれて、寝返りを打つばかりの白々とした夜」だと書かれている。一言でいえば、眠れずに夜を明かす苦しみ、であろう。「白夜」は、故郷の川、道や港や家並や訛りのある人々の話し声、雪や雨や風といった、当たり前な自然に触れても生まれてしまう。それらがいくら書いても書ききれぬ、「白夜」の景色を形作ったのだと思う。
『白夜を旅する人々』を書いている最中に三浦さんは、血圧が二百近くまで上って、一月ほど入院された。
 三浦さんが「これで全ての宿題を終らせた」というほどに、この作品には、三浦哲郎の家が濃密に表わされているが、「自伝的な作品の集大成」ではなく、「すべて想像の世界なのである」と三浦さんは断っている。そのような意味からいえば、自伝的と思われる作品であっても、歪められた言葉としての「私小説」ではなく、真実が語られたのである。
『流燈記』は、差別意識が露骨に現われた、太平洋戦争中の物語である。イギリス人を父とする、髪の毛の赤い、暗がりで透明な目が光る少女には、『白夜を旅する人々』に共通する苦悩が漂っている。三浦さんの「宿題」は永遠に無くならなかったのだろう。
 長編小説『海の道』について、三浦さんは『自作への旅』で、次のように書いた。
 私は、以前から、髪の毛や目や肌の色がみんなと違うというだけで、笑いものにされたり、除け者にされたりする混血児たちに、深い同情の気持ちと親近感を抱いている。なぜなら、私自身の身辺にも、混血児ではないけれども彼等とほとんどおなじような哀しみと、屈辱と、苦労とを味わいながら暮している慈しむべき肉親があるからである。
 これはそのまま『流燈記』に当てはまる主題である。だが、『流燈記』を読んでいて、暗く重い思いはしない。彼女は快活な女学生であり、憲兵の嫌がらせをユーモラスな対応で躱してしまう。年下の少年との淡い恋。戦争という逃れようのない嵐に巻き込まれながらも、生きる力を失わない。明るい一筋の光が彼らを射しつらぬいている。
 生きる力、は、人間がどん底に落とされた時に生まれる、という三浦さんならではの旋律が小説のそこここに流れている。生きる人の「苦しみ」は「優しさ」に変化して行くばかりだ。
 東日本大震災のテレビニュースでの被災者の表情に、私は、三浦哲郎の小説に浮かび上がるそれを感じる。東北の歴史が生んだ表情のように思う。蝦夷の時代から脈々と流れ続けた清水のような。泉のような。
『海の道』の「はぎ」は混血児であり、主人公の「桜」の母である。二人は毎日海を見ていた。「はぎ」は、波を見ていると、黒く染めている髪を洗いたくなった。早く染め粉を洗い落として元の自分に帰りたい。
「戦争が済んだら、すぐ海に入って髪を洗おうな。」
 はぎは桜にそういった。
「戦争が済んだら? 済むの?」
 と桜がいった。
「済むえなあ。はじまったことは、いつかは済むにきまってらい。」
 ある日、なんの前触れもなしに、突然、潮の道が変るように、世の中も、朝、目を醒ましてみると、どんでん返しに変わっているというふうにはいかないものだろうか。
 地震と津波と原発事故は、「なんの前触れもなしに」襲ったが、「はじまったことは、いつかは済むにきまってらい。」という「はぎ」の言葉のように、大きな試練こそ、昨日までとは異なる新しい道を開き、新しい世界を創造して行くに違いない。
(つかさ・おさむ 作家・装幀家)

『流燈記』 詳細
三浦哲郎著

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