地下の天民、もって瞑すべし/大村彦次郎

 その昔、小説雑誌の編集者をしていた頃、中国文学者の奥野信太郎氏に、風俗探訪の連載ルポをお願いしたことがある。そのとき奥野さんから、「ここはひとつ、松崎天民流でいきますかな」と言われ、こちらは天民の名を知らず、恥をかいた。明治の末年、早熟の奥野少年は『中央公論』誌上に載った天民の「淪落の女」を読んで、異様な興奮に襲われ、ひと晩中、寝られず、弱ったそうである。
 天民について、もう一つ。同じ頃、藤原審爾「秋津温泉」のグラビア撮影で、岡山県の山間地にある奥津温泉峡に出張した折、泊まった先の宿の主人から、「近くに松崎天民の歌碑がありますよ」と、教えられた。天民はこの温泉に近い岡山県落合町の生まれ。紀行文も多くモノしたから、故郷近くに歌碑の一つぐらいあってもおかしくないだろう。奥津湯の情あつきに一夜寝て 雪に明けたる今朝のよろしき――昭和八年、亡くなる一年前の作詞である。
 余計なマクラをふったが、小生の知る天民はこれだけである。こんど坪内祐三氏の「探訪記者松崎天民」を読み、あらためて天民に関するおよその知識を得た。近年、これほど興趣を覚え、堪能した評伝はない。天民という人物が面白いのか、それとも著者の周到な筆致がなせるわざか。
 残念ながら、天民は二流の雑文家である。明治大正の文壇では、端役に過ぎない。伊藤整の「日本文壇史」にもちょっとだけ顔を出す。大逆事件や石川啄木との関わりによる。天民には学歴がない。家が貧しく、小学校卒で世に出た。その点は天民より六、七歳年少の、都新聞に在籍した中里介山、長谷川伸もそうだ。しかし、二人はのちに作家として大成した。天民は伸びずに終った。
 新聞記者に学歴が問われるようになったのは大正の末年、朝日新聞社あたりから始まる。天民の駆け出し時代は日露戦争で新聞の部数が拡大した。あすをも知れぬ身でありながら、記者たちは渡り職人のように、各社を転々とした。筋目のいい岡本綺堂のような人でさえ、一所不定である。天民の漂流ぶりを見れば、明治の新聞記者の生態がホウフツとする。
 この時代、天民は生来の喜怒哀楽の情に駆られ、破天荒な暮しを送る。父の葬儀のさいにも、妻に隠れて、愛人の許へ通い続け、その妻は翌年、二人の子を残し、陋巷に病死する。もうハチャメチャである。記者稼業のあとは雑文業に転じ、昭和期に入って、雑誌『食道楽』の編輯兼発行兼印刷人として、その生を終える。
「明治人物逸話辞典」の著者森銑三はその大正篇を含め、天民の名を外して、その事績を取り上げなかった。もっとも天民ばかりか、宮武外骨、梅原北明らも除いているから、森はアクのつよい個性を嫌ったのである。
 それに対し、本書の著者は天民のどこに、なにゆえ魅せられたのか、その上梓に及ぶまで十五年の歳月をかけた。本書の内容は三部に分れる。第一部は天民が大阪朝日の記者になるまでの青年期、そのあと四年の休筆期間を経て、第二部は日露戦争後、上京し、徳富蘇峰の国民新聞に転じた頃まで、そしてさらに八年間の中絶後、天民晩年までの第三部がエピローグも含めて書き継がれた。
 その間、著者の内部で天民像がしだいにふくらんでくる。その熟成を待つ時間が必要だったのか。多忙な評論活動の合い間を縫って、散逸した資料、文献類を渉猟する、その粘りづよさは見事である。
 著者は天民の人間性に惚れ込み、その生きた時代を描きたかった。新聞記者としての遍歴、脈絡のない破綻ぶり、そこから見えてくる時代との葛藤。ズボラで、哀れな天民を抱きかかえ、あまたの時間を共に過ごした。地下の天民、もって瞑すべし、である。
(おおむら・ひこじろう 元編集者)

『探訪記者松崎天民』 詳細
坪内祐三著

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