マイナスからの出発/上野千鶴子

 昔からいくたびも家は焼け、地震で倒壊し、波にさらわれ、土砂にみこまれてきた。だから、滅びれば建て直せばよい、とわたしたちの祖先は思ってきた。
 だが、と島本慈子さんは言う、昔と今の大きな違いは、家を失った跡地に膨大なローンが積み残ることだと。
 島本さんは『大震災で住宅ローンはどうなるのか』の著者である。関西在住で阪神・淡路大震災を身近に経験した彼女は、『倒壊――大震災で住宅ローンはどうなったか』(筑摩書房、一九九八年)を書いた。その彼女が、今回の東日本大震災の被災者に、同じような関心を抱いたのは自然だろう。
 昔の日本では被災者はゼロからのスタートだった。もちろんそれだってたいへんだったことだろう。だが、今の被災者はマイナスからのスタートを強いられる。被災地にはそのマイナスの重荷が復興の前にたちふさがる。それが見えますか? と彼女は問いかける。
 このようなマイナスからのスタートを、日本社会が大きな規模で経験したのは、阪神・淡路大震災が初めてだった。なぜなら、それは戦後初の、都市型大災害だったから。言いかえれば、雇用者が多く、持ち家志向が高く、ローンを組んで住宅を購入する人々が多い地域を、地震が直撃したから。それというのも、戦後、日本の政府が国策として住宅ローンによる持ち家政策を推進してきたという背景があるからだ。
 もしこれが賃貸住宅なら……住まいを失っても住みかえればそれでよい。もしこれが公営住宅なら……被災者には代わりの住宅を自治体が世話してくれるだろう。倒壊した公営住宅の復興は、公費でおこなわれるだろう。
 これができなかったのが阪神・淡路大震災である。日本では自然災害による私有財産の損失を政府が補償してきた歴史はない。かろうじて、小田実さんをはじめとした阪神・淡路大震災の被災者たちの努力で、一九九八年に被災者生活再建支援法が成立したことで、国が被災者の生活基盤の再建を一部でも経済的に援助することが可能になった。
 事態をもっと複雑にしたのが、集合住宅の区分所有という新しい所有権のありかただった。全員一致でなければ建て替えできない……ために、にっちもさっちも行かなくなった例がいくつもある。一九八三年には、五分の四以上の賛成があれば建て替えできるという区分所有法の改正が成立したが、それでも合意形成へのハードルは高い。
 阪神・淡路大震災から学んだことは多い。その教訓は、東日本大震災では生かされているだろうか? と島本さんは問いかける。それどころか二重ローンに苦しみ、債務のために復興の意欲も奪われた被災者がいる。
 なら、どうすればよいのか? 地震や津波や噴火の被害に遭う可能性が高い土地を開発して売却したデベロッパーに責任はないのか? デベロッパーに開発許可を出した公的機関の責任を問わなくてよいのか? リスクを承知で住宅ローンを貸した金融機関は、共同責任を負わなくてよいのか? なぜ借り主だけが、全責任を背負わなくてはならないのか?
 それなら「この土地は活断層の上にあります。耐震基準は何年までのものに合格していますが、震度7以上には対応していません」とか注意表示をつけて、リスク込みで価格設定すればよいのか? たとえそうしても、価格訴求だけで安価な土地を売り買いするひとびとは絶えないだろう。
 危険な土地に住むな。危険を承知でそれに備えよ。もし島本さんの提言がそういうものだとしたら、日本列島にはほとんど住める土地がなくなってしまう。だが、もっと根本的に、住まいという暮らしにとっての基本財を、私有財にしてしまった戦後の政策が問われているとしたら? 低廉で良質な公営住宅が賃貸で提供されていたら、被災のコストも公的に負担されることになるだろうに。
 一生を抵当に入れて手に入れる住宅という私有財……本書は、戦後持ち家策の奇怪さを、つまり日本の住宅政策の貧しさそのものを、災害の側からあぶりだしている。
(うえの・ちづこ 社会学者)

『大震災で住宅ローンはどうなるのか』 詳細
島本慈子著

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