宮本常一が、つげ義春を読んでいたなら…/高野慎三
ある日の夜、突然つげ義春さんが私の住まいにやってきた。登山靴を脱ぎ捨て、部屋に入るなり東北旅行の一部始終を語り出したのである。たぶんつげさんは、数日前からの「旅の興奮」というようなものを伝えたかったのだろう。蒸ノ湯、後生掛、小安峡、二岐、岩瀬湯本など秋田、福島の温泉を何日もかけてまわってきたのだった。つげさんにとっては、はじめてのひとり旅だったようだ。
つげさんの語り口というのは、たいへん耳に馴染みやすい。「旅の興奮」といっても、大仰に表現することはなく、蘊蓄を披露することもなく、目にした情景だけを詳細に静かに説明していく。そのおだやかな語り口が逆にリアリティを深める。それはマンガ作品に描写されたのとまるで同じだ。そして、いつもいつも「どうしてあんな崖の途中に温泉が湧くのでしょうかね」と、不思議な、あるいは謎めいた自然の風景に関心を傾ける。
ところで、つげさんはいわゆる「温泉好き」というのとは少し違うのではないか、と思うことがある。たしかに、湯治場のある農山村をおもに訪ね歩いているようだったが、そのとき、ゆったりした気分に浸りたいというだけではなさそうであった。そのことは、旅写真やエッセイからも推し量れるのかもしれない。自然の風景を驚きをもって語りつつ、山深い農山村の暮らしにより強い関心を抱いているようだった。
かつて、つげさんは「古い旅の本で東北地方の湯治場の写真を見て、あまりに惨めで貧しそうで衝撃を受ける。自分の奥の何かが揺さぶられたような胸騒ぎを覚え、じっとしておれない気持ちで出かけた」と記したことがある。東北に出かけたのは、屈折した精神の拠り所を求めてであったようにも思えるが、八幡平からさらに南下し、福島の温泉を訪ねたときの体験をヒントにして「オンドル小屋」や「二岐渓谷」などの名作が生まれた。そのときのことを「湯野上から岩瀬湯本にいたる鶴沼川の懸崖に、家畜小屋のように惨めな家屋が五、六戸固まって雨に濡れているのをバスの窓から見て、そのボロ家に抱きつき頬ずりし、家の前のぬかるみに転げ回りたい衝動を覚えた」とも綴った。そのあとも友人と同所を訪ねたようだが、三年前に見た鶴沼川の集落は「いくら探しても分からなかった」ようである。またあるとき、「あそこはマタギやサンカのようなひとたちの集落でもあったのだろうか」と言い添えた。
三年前の二〇〇九年に私も岩瀬湯本や二岐温泉に寄ったあと、当の場所を捜してみた。つげさんが目撃した集落はすぐにみつかった。つげさんは鶴沼川に沿った道路の南側と記憶していたようだが、じつは北側であった。広く拡張された道路際の窪地に一棟だけ木造の平屋が残っており、たくさんの草花に囲まれて中年の女性が忙しくガーデニングを楽しんでいた。
「むかしはここに六軒の家があってね、一里先の山の奥で炭焼きをやって暮らしていた、あとは、山菜採りね。うちは草履や下駄もつくっていたよ。わたしは東京の大田区で働いたこともあるし、結婚もしたけど、なんといってもここの風景が一番だね。いまはひとり暮らしだけど、友だちは東京にもいるし、いまも文通してるよ」といって、たくさんの手紙の束を見せてくれた。ひょっとしたら、四十年前につげさんの乗ったバスに手を振った少女なのかもしれない、と思った。それにしても、女性の思い出話は、そっくりそのままつげ義春の作品世界だった。
今回の『つげ義春の温泉』には一九六〇年代から七〇年代にかけての東北から九州までの温泉写真が多数収められている。私は、つげさんの案内に従ってそのうちの数カ所を訪ねたに過ぎないが、つげ義春の好む風景や情景は、私なりに理解しているつもりだ。たぶん、ふたりともがもともと宮本常一さんの愛読者だったからだろう。
私が宮本常一さんになんどかお目にかかったのは、つげさんと出会う二年ほど前のことだ。高度資本主義以前の温泉風景の数々、エッセイで触れた湯治場や農村の姿、そして、温泉を素材としたマンガ作品等々に、宮本さんが接していたならば、その民俗学的な価値において大いに関心を持たれたのではないかと思うことがある。
(たかの・しんぞう 文筆家)
『つげ義春の温泉』 詳細
つげ義春著
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