日本陸軍と意思決定のメカニズム/北岡伸一
私は一九七八年に『日本陸軍と大陸政策――一九〇六―一九一八年』(東京大学出版会)という本を出した。この時期の日本の大陸膨張において陸軍がどのような役割を果たしたか、そしてそのことが逆に陸軍のありかたにどのような影響を及ぼしたかを、政策と権力の両面から、考察したものである。
それまで、戦前の軍に関する研究は、もっぱらその否定的な特質を追求するものが多かった。私の著作は、より内在的、実証的に理解しようとしたものだった。そのため、戦争を知らない世代が無邪気に軍を論じることに危惧を感じる、という趣旨の書評が出たことがある。
しかし、八〇年代に入ると軍についての実証的研究が着実に増加した。この本も広く読まれ、三四年後の今も版を重ねている。しかし私自身は、七九年に「陸軍派閥対立(一九三一―三五)の再検討」という論文を書き、また九〇年に「支那課官僚の役割」という論文を書いた以外は、陸軍に関する研究から離れていった。
上記の論文を含め、『日本陸軍と大陸政策』のいわば続編を出すことは、長年の懸案だった。ようやく昨年から本格的に着手し、新しく二論文を書き下ろして、『官僚制としての日本陸軍』として筑摩書房から刊行してもらうことになった。
軍というのは難しいものである。その国にとっての脅威を正確に分析し、それに対応するための軍備を国力の許す範囲で備え、周到な戦略をたて、外交との連携のもとに、この軍事力を効率的に使うというのが、理想だろう。ところが軍も組織であり生き物であるから、なかなかそうはいかない。日本の場合とくに大きいのは意思決定メカニズムの官僚化という側面だと思う。それが本書のタイトルになっている。
私はこの間、軍事史研究からはしばらく離れていたが、いろんな意味で軍事について考える機会は多くなった。
一九九〇年の湾岸危機、九〇年代からの朝鮮半島危機、PKO活動などについては、日本の外交、安全保障政策の一環として研究してきた。
二〇〇四年から二〇〇六年までは、国連代表部の次席大使に任命されたため、安保理における様々な議論に参加した。アフガニスタン(ただし大使になる前)や、ハイチや、コンゴ民主共和国やスーダン(ダルフールおよび南スーダン)など、紛争の現場も見に行った。そのときの状況を把握するのに、軍事の知識は不可欠だったし、現場から学ぶことは実に多かった。
また日中歴史共同研究に参加する中で(二〇〇六~二〇〇九)、中国側の視点も、より理解できるようになった。外務省から委嘱された安保と密約に関する調査(二〇〇九~二〇一一)でも、軍事史の知識は大変役に立った。その中で、戦前の軍が抱えていた問題が、戦後にもかなりの程度残っていることを以前にもまして痛感するようになった。その鍵は、やはり組織と意思決定の官僚化だと思っている。
私は今年の四月から政策研究大学院大学に勤務している。ここは、実はかつて歩兵第三連隊があったところであり、明治四〇年五月から四二年一月まで連隊長を務めたのが田中義一だった。またここから数分の東京ミッドタウンには、歩兵第一連隊があり、田中連隊長時代の第一連隊長は宇都宮太郎で、長州の田中に猛烈な敵愾心を抱いていたらしい。
ところで田中はその後、軍事課長となり、次いで第二旅団長となったが、明治四四年六月、配下の第三連隊に、藩閥の敵と思われていた大隈重信を招いて世間をアッと言わせた。
しかし、田中は軍民関係の密接化が不可欠だと信じ、軍事課長時代にはその観点から在郷軍人会を作った人物だった。世間に大きな影響力がある大隈を招くのは不思議ではなかった。なお、これを仲介したのは宇垣一成だったらしい。
田中はその後まもなく、一九一一年九月、陸軍省軍務局長に就任し、やがて陸相となり、首相となる。
しかし田中の二一年あとに歩兵第三連隊長となった永田鉄山は、やはり軍事課長となり軍務局長となるが、一九三五年八月、省内で斬殺されてしまう。その半年後の二・二六事件の主力となったのは、歩兵第一連隊と第三連隊(および近衛歩兵第三連隊)だった。さらにその五年後の一九四一年、元第一連隊長の東條英機は、首相となり、日米開戦に踏み切るのである。
この本で述べたように、山県有朋が築きあげた長州閥の支配に対する怒りと、外交・軍備に関する政策対立が、陸軍内の激しい派閥対立をもたらし、陸軍内部の意思決定を不可能にして、日本帝国を破滅へと導いていった。そうした激しい渦の中心は、私もほとんど忘れていたのだが、実は今の研究室のあたりだったのである。
(きたおか・しんいち 政策研究大学院大学教授)
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