『医心方』完結に寄せて/槇佐知子

 遂に此の日が来た。書名すら知らなかった私がたまたまめぐり会い、五千字の部首字書を手づくりして解読を手がけてから四十年。刊行開始から二十年の歳月が流れた。
 序文を書き了え、校正を重ねても、出来上った本を手にとるまでは不安だった。3・11のような事態がいつ起るか判らないからだ。曲りなりにもここまで漕ぎつけることができたのは、読者と、励まし支えて下さった方々、そして出版社の使命感のお蔭である。文献との出会い、人びととのめぐりあい、一木一草、鳥獣、昆虫との出会いも本書を読み解くとき只ならぬ意味あいを持つ。縁の糸にたぐられて生かされて来た日々を想う。
 もしも国学者で小児科医でもあった本居宣長が『医心方』に出会っていれば、「平安時代にはみるべき医学がなかった」とはいわず、『古事記』や『源氏物語』の解釈やその後の医療に大きな影響を与えたであろう。もし、南方熊楠が『医心方』を読んでいれば、日本文化の発展にどれほど貢献したことか。
 医心方安政覆刻本刊行の大事業をテーマにして作品『渋江抽斎』を著わした森鴎外が、その解読に取り組んでいれば、陸軍は戦死者の数より多かったという脚気による死者を出さずにすんだであろう。
 古代の脚気は『枕草子』に登場する「あしのけ」で、手足に症状が出る病気の総称であった。リュウマチ、痛風、知覚マヒ、小児マヒ、動脈硬化、むくみ、痛み、アカギレまで含む。現代のビタミンB1欠乏による脚気とその進行による心不全は当時の脚気のごく一部であった。鴎外はヨーロッパ留学までした陸軍軍医総監であり、作家としても数々の名作を生んだが、それ故に多忙すぎて『医心方』を読むことができなかったのが惜しまれる。
 さらに柳田国男や折口信夫が『医心方』に出会い、読み解いていたら、民俗学会にどれほど大きな影響を与えたことか。『金枝篇』の著者フレイザーがこの書の存在を知ったら、日本へ飛んで来ただろう。
 もしも和辻哲郎が出会っていれば、医心方の卓越した医の倫理や風土が体質に及ぼす影響と、それによる疾病の治療法に瞠目し、名著『風土』や『古寺巡礼』『日本倫理思想史』に影響を及ぼしたであろう。
 偉大な先人たちが『医心方』に眼をとめなかったのは、本居宣長の場合、半井家の門外不出の秘本だったのだから止むを得ない。だが安政覆刻本刊行後、間もなく江戸幕府は崩壊して明治となり、近代化や軍国化が進む中で西洋医学が取り入れられ、漢方医学は低迷期を迎えた。『医心方』の活字本が日本医史学会の創始者土肥慶蔵・呉秀三・富士川游の三博士の名で金港堂書店から刊行されたのは明治39年(一九〇六)で、半井家秘蔵の『医心方』が江戸幕府の厳命で提出された48年後である。だが『日本医学叢書第二巻』として発行された直後、風紀を乱す性愛の書として発行禁止処分となった。30巻中の巻28房内篇のために、「医心方=性愛書」と見做されたのだ。
 偉大な先人たちが『医心方』と取り組まなかったのは、そうした風評ゆえではなかったか。そのお蔭で私は『医心方』を読み解く醍醐味を堪能することができたのである。「医書は心ない者が濫用しないよう、故意に難解にしてある」と、漢の淮南王劉安は著書『淮南子』でいう。文字を難解にするだけでなく薬名も難解にしてある。それを解く愉悦、歴史上の巨星たちの思いがけない一面を時空の旅で知る歓び。ときめき。ドキドキ、ワクワクの連続で調べれば調べるほど過去のさまざまな記憶とつながり、謎がほぐれてゆく。
 美容法や呼吸法、食べものを試み、現代を超える古人の智慧に驚かされた。処方を自分の病気や怪我に応用して癒したこともある。何と充実した濃密な日々であったことか。
 時に恵まれ、出会いに恵まれ、神の掌で生かされて、完結が撰者丹波康頼の生誕千百年に間に合うことが出来た歓び。これからはゆっくりと、好きな古典を医心方で読み解きたい。
(まき・さちこ 古典医学研究家)

『医心方』丹波康頼撰、槇佐知子全訳精解
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