特集 『明治文學全集』復刊に寄せて 走れ! 小説/高橋源一郎

 気がついたら、『日本文学盛衰史』という小説を書く少し前から、明治の小説にのめりこんでいた。
 もちろん、漱石や鴎外や啄木が書いたものなら、何冊も読んだことがあった。透谷に凝った時期もあった。他にも何人か、好きな「明治の作家」もいた。だが、それは、「大正の作家」や「昭和の作家」や「アメリカの作家」と同じように、「ある時代の作家」や「ある国の作家」という意味しかもたなかった。自分が読んでいる作家になんとなくラベルを貼っただけだった。つまり、たいした意味はなかった。
 では、なぜ「明治の作家」、いや「明治の小説」にのめりこんでしまったのか。
 おもしろいから? そうかもしれない。でも、おもしろい小説なら、他にもたくさんある。
 知らないことが書いてあるから? 確かに、そういう部分はある。でも、もっと遠い時代の小説、遠くの国の小説には、もっとずっとわからないところが多いのだ。
 若い、と思ったのだ。なにもかもが、である。
 明治という、新しい世界になったばかりだった。どんなことばを使って詩や小説を書けばいいのか、誰も知らなかった。なにもかも真っ白け。その連中は、石がごろごろ転がっている未開墾の土地に、放り出されたのだ。中には、つい最近まで、武士として丁髷を結っていたやつまでいた。
 そういう環境で、次から次へと、「新しい」小説が生まれた。もちろん、その大半は、ろくでも無いものだった。それは、「明治」という時代のせいではない。どの時代でも、芸術家たちが作るものの大半は、つまらぬものなのである。
 彼らのために、新しいことばを作り、小説の新しい「形」を作った代表のひとり(というか、彼もまた「彼ら」のひとりだったのだが)は、晩年に近く書いた作品の冒頭、ある新聞の連載小説の一回目で、こう書いている(もちろん、これもまた、途方もない失敗作だった)。


「私は今年三十九になる。人世五十が通相場なら、まだ今日明日穴へ入らうとも思はぬが、しかし未来は長いやうでも短いものだ。過去つて了へば実に呆気ない。まだ??と云つてる中にいつしか此世の隙が明いて、もうおさらばといふ時節が来る。其時になつて幾ら足掻いたつて藻掻いたつて追付かない。覚悟をするなら今の中だ。
 いや、しかし私も老込んだ。三十九には老込みやうがチト早過ぎるといふ人も有らうが、気の持方は年よりも老けた方が好い。それだと無難だ。」


 三十九で、「老込んだ」と書いたのは、彼ら、明治の作家たちが、たいへんな速度で生きたからだ。他の時代の連中が百年かかるところを、彼らは三十年ほどでやり遂げなければならなかった。
 この男が「老い」を素直に告白したのは、「近代文学」が生まれてからざっと二十年と少したっての後だった。この頃すでに、明治の小説は、いまとあまり変わらぬものにまで成長していた。いや、成長はすでに止まっていたのかもしれない。
 だから、わたしは、いまも繰り返し、「明治の小説」たちを読むのである。すると、いまよりもずっと狭い空間で、押し合いへし合いするように、もつれ合いながら、小説たち(作家たち)が駆け出してゆく様子が見える。
 あちこちで倒れているやつがいる。ふらふらになったやつを抱えたまま走ろうとしているやつがいる。途中で歩きはじめて、ついに止まりかけているやつもいる。そんなやつらなんだ、「明治の小説」っていうのは。
(たかはし・げんいちろう 小説家)

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