自在で柔軟な読書術/富岡幸一郎

 本書は、本誌に連載された「珍本通読」に加筆した文庫オリジナルである。古今東西、ジャンルをこえた本の紹介に読者は圧倒され目眩く感覚を味わうだろう。
 ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』、ニーチェ『ツァラトゥストラはかく語りき』、ラッセル『西洋哲学史』、カント『純粋理性批判』等の西洋の著名本があれば、吉屋信子『自伝的女流文壇史』、大川周明『日本二千六百年史』、『蓮田善明全集』、長谷川時雨『美人伝』等の名前は知っていても実際に繙くには稀な本、また江戸期の豆右衛門シリーズ(「魂胆色遊懐男」「豆右衛門後日女男色遊」)、川原寿市『儀礼釈攷』、『満文老』、『褒貶謄録』等それこそルビが振られていなければ(評者のように)題名さえも読めない本など、実に多彩かつ興味深い、文字通り「珍本」もふくめた本の群が次から次へと現われて来る。それも「この一冊」にこだわるのではなく、義経の八艘飛びよろしく関連本へと軽やかに身を踊らせて読者を飽きさせない。語り口の妙も大いに楽しめる。
 著者は朝鮮・東アジアの専門家としてつとに知られているが、あとがきに記しているように「好き嫌いをはじめから度外視した読書遍歴」(博覧強記といってもよい)のたまものであろう。
 もちろん著者の嗜好ははっきりしているのであり、ニーチェに触れた「ゾロアスターの直観」の節で述べている「直観」と「超越」へのアンビヴァレンツな関心や、『源氏物語』の紫式部から最近の芥川賞作家・朝吹真理子まで千年の日本文学をつらぬく手弱女ぶりの強靭さに寄り添いながら、吉川幸次郎、福田恆存、加藤周一、渡辺一夫等のニッポン・モダン時代の〈知的〉益荒男たちへの哀愁を滲ませてみせるところなど随所にその特色が見られるのである。
 また、「全体は、いわばキッチュのパノラマである」というごとく時代も地域も分野も様々であるが、取り上げられた本の核心として、その文体の美しさが挙げられる。洋の東西をこえて哲学・宗教・科学から小説本まで、翻訳、漢文、和文を問わず文体こそがその時代精神の証しであり、本というものの最大の魅力なのだ。したがって引用文をゆっくりと玩味すれば、本書の味わいも倍加するだろう。
 グノーシス(神を認識する欲求)についての節では『ヘルメス文書』が神々しい響きとして引かれており、モンゴル軍の全滅戦に触れた「蒙古と女真」の節などは一幅の歴史画を見る思いがする。
 文庫本にする際に著者は三十六回の連載文を四つの章に区別した。「変配の章」「直観の章」「世界化の章」「壊造の章」と一見すると奇妙なタイトルに配されているが、これは著者の当初からの本書のモチーフをくっきりと浮かび上がらせる。「多にして一」を念頭に置き書いてきたという、その「一」である。一言でいえば、それは「モダンの時代」が終わった今日における「紙の本」の新たな読書術である。ポストモダンというと難解な思想的なものを連想しがちであるが、そうではなく、古代・中世・近代(現代)・未来と線的に流れる伝統的な歴史観が通用しなくなった現実であり、普遍的・絶対的な真理がすでに失効した価値の崩落現象のことである。
 それは人類の理想が失われ、価値相対主義の不安と分裂をもたらすと考えられやすいが、著者はむしろそうであればこそ、モダン時代に蓄積された多くの「紙の本」の宝庫の扉が開かれるのであり、読書人たちは各々の時代やジャンルの枠に囚われることなく、自在に柔軟に興味と知的関心のままにアクセスできるというのである。
「深く掘る。ゆえに広く深くである」。これぞポストモダン時代の読書術、というよりは言語の動物たる人間の最高の特権であり、人格陶冶の方法論である。本書はその実践の書にほかならない。
(とみおか・こういちろう 文芸評論家)

『「紙の本」はかく語りき』 詳細
古田博司著

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