部落史研究の裾野を広げる/笠松明広

 大きな物語の終焉がいわれだしたのが一九八〇年代だった。謳歌される資本主義のなかで貧困という問題も解決可能だと思わせたのが八〇年代だった。が、それもつかの間。バブルとその崩壊が続き、新自由主義が世界を席巻し、グローバル権力としての「帝国」が出現した。
 部落史をめぐっても、大きな物語としての、体系叙述の歴史に代わり、さまざまな地域、時代の個別研究がすすめられ、多様な部落像が示されてきた。
 朝治武は、『水平社の原像』のなかで、全国水平社創立大会での「宣言」には、西光万吉が書いた「宣言を作るについては平野小剣さんに大添削をしていただいた」との文章をもとに、平野の思想が入っていることを明確に指摘した。『アジア・太平洋戦争と全国水平社』では、戦時下の全国水平社の実相を豊富な史料をもとに解明してきた。この二著をふまえた新たな結実が、今回の『差別と反逆 平野小剣の生涯』である。
 平野は、スパイ、裏切り者、アナキストの烙印を押され、忘れられてきた人物だった。「活字への憧れから印刷労働者」になり、一九一八年には労働運動に飛び込んだ。水平社創立大会の準備過程で合流した平野が、労働運動のなかで蓄積してきた経験、手法をもとに大いに力を発揮し、主導権を握っていったのは間違いない。融和運動家の三好伊平次が、内務省に、他のメンバーは「善導」が可能だが、平野は「東京方面代表者ニシテ社会主義者ノ後援ニヨリテ運動セントスル唯一ノ主義者」と見たのもこうした事情からだ。平野は一九二〇年に「日本社会主義同盟」に参加するなど、新しい社会思潮の吸収にも旺盛だった。それが振幅が激しい平野の思想や行動となっていく。
 平野は日本共産党系を中心とするボル派によって、スパイとして全国水平社を追われるが、差別糾弾闘争をおこなった部落を、糾弾を受けた人びとが襲撃するという群馬県の世良田村事件で救援活動をおこない、事実上、復活することとなる。ここから一九二八年まで、平野はアナ系や保守系のグループと関わるなどの活動を展開する。これは「只全体性にのみ飛翼して、部落民の特殊性、即ち内面的部分性を全く忘却せる公式全面論」たるボル派への不信と、部落民意識にもとづく「純粋」な水平社運動のためだったのではないか。しかし、二八年からは、アジア主義と日本主義を掲げる国家主義団体を立ち上げ、天皇のもとでの解放をはっきりと主張しはじめるのである。
 平野の思想は、アモルファスであり、濃淡のどこからどこまでが、という線引き不能なグラデーションで彩られる。初期の水平社の差別糾弾闘争は「臣民平等」で貫かれていた。人間主義の理念を主張した西光は戦時下で皇産主義に転向した。ボル派も最終的には民衆のなかにではなく、国家に解体されていく。
 平野という存在は、じつにいまの部落解放運動に通底する問題群を内包している。そこをどう抉り出し解明するのか。新たな大きな物語の動きにどう合流していくのか。評伝というかたちで、刺激的な問題意識に導くのが本書の最大の特徴だ。
 狭山事件で犯人とされ続けている石川一雄が無実を叫び半世紀をむかえた。狭山事件の最初期に手をさしのべたのが同胞差別偏見撲滅部落民完全解放自由民主党代表を名乗る荻原祐介だった。彼が平野小剣に連なる人物であることが、五〇年目に朝治の著書で明らかになった。これもひとつの機縁だろう。
 朝治の新著は、これまでのボル派という点のみならず、平野という点を示すことで、二つの定点をもたらし部落史研究の裾野を楕円形に広げた。こうした視点からいうなら、ボル派中のボル派でありながら、一九二六年に部落出身者でないことを理由に除名され、転向者として顧みられることが少なかった高橋貞樹について、本誌で連載された沖浦和光による評伝が、さらに裾野を広げるためにも早期に刊行されることを望みたい。
(かさまつ・あきひろ 部落解放同盟中央機関紙「解放新聞」編集長)

『差別と反逆 平野小剣の生涯』詳細
朝治武著

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