〈顔〉で向かい合う自己と他者/平野啓一郎

 21世紀はまだたった一割の年月を経たに過ぎないが、残りの九割が、いよいよ以て20世紀とはまるで違ったものとなることは、既に疑問の余地がない。今日、未来像は、グローバル化とテクノロジーの進化、地球環境の変動といった、幾つもの巨大な要因によって、揉みくちゃにされている。
 私たちは、スタティックな秩序を望むことが、ほとんど夢物語のようになってしまったこの世界の中に、幸か不幸か投げ込まれている。当然、自己も揺らぎ、他者も揺らぐ。世界像そのものが、巨大地震の最中のようにぶれている光景の中で、著者は改めて、「わたし」を問い、「あなた」を問い、その共存の可能性を検討する。決して俯瞰的に抽象化されたモデルではなく、飽くまで等身大の他者と向かい合い、自己へと再帰する。その際、一貫して慎重に考察されるのは、「分かる」と言うことの積極的な暴力性であり、同時に「分からない」と言うことの消極的な暴力性である。
 本書は、10章からなっているが、冒頭が〈顔〉というテーマから書き起こされているのは象徴的である。
 この章はまさしく、本書の顔だが、一見すると逆説的にも見える。というのも、後段でも議論されている通り、著者の自己認識は、「〈わたし〉という存在は、だれかある他者の意識の宛て先としてかたちづくられて(いる)」というものだからである。このカップリングを足場にしながら、人格の多様性を肯定的に説く著者の思想に、近年、〈分人〉という概念を提唱している私は、非常に親近感を覚え、ここでも多くを教えられたが、しかしだからこそ、同一性の最後の砦としての顔を突破口とする構成に意義を感じた。
 顔はそもそも、遺伝と経年変化の産物であるスタティックな「作り(かたち)」と、経秒変化的なダイナミックな「表情」とが結び合ったものである。前者には、複数的な対人関係の蓄積があり、後者には一対一の対人関係の正面性がある。
 本来、それらが一体化した顔は、絶対に個性的であるはずだが、にも拘らず、私たちのコミュニケーションが可能であるのは、そこに一定の交換可能性を認め合っているからである。そして、まさにその交換可能性の故に、私たちは他者の顔に呼応して自らの顔を持ち得る。原理的に、複数性によって涵養された「作り」は、パターン化を通じてその交換可能性を担うが、それが豊かであるのは、その実、正面的な他者との接触の度に、常に一回的に新しさを獲得するからである。さもなくば、人間の顔は、顔文字的に記号化され、衰微してしまう。
 著者はそれを〈顔〉に対して「顔」と区別する。そして〈顔〉は、他者の眼差しが「顔」を見ようとするやいなや、敏感に反応して、即座に撤退してしまう。私たちは、他者から顔を所有されまいとする。パターン化によって処理されることを忌避する。にも拘らず、私たちの顔は他者から与えられる。他者の存在無しには、私たちは顔を持ち得ない。
 本書は、この繊細な洞察を中心として、以後、〈こころ〉、〈恋〉、〈ヒューマン〉と様々なテーマを論じてゆく。そのいずれもが、まさしく顔として読者に対話的な働きかけをする。私自身は、殊に〈私的なもの〉で論じられた、自己所有と所有権の問題に、分人主義的な「シェア」を考えるためのヒントを与えられた。
 自由に、思うところをノートに書きつけながら、本書を読むと、あっという間にページが埋められてゆくだろう。そこを足がかりにして始まる個々の思索が必ずあるはずである。
(ひらの・けいいちろう 作家)

『〈ひと〉の現象学』詳細
鷲田清一著

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