スコットランドとイングランド/山本義隆

 スコットランドとイングランドは、現在ではグレイト・ブリテンの二つの地方だが、もともとは別個の国であり、その統合は一七〇七年。以来イングランドはなにかにつけてスコットランドを蔑んできた。その世紀の終りにスコットランドを訪れたロバート・オウエンは、往来で女性たちが人目も気にせずスカートの裾を絡げ、両脚を露出して洗濯しているのに驚いた話を自伝に書いている。「この人たちはこんなことをてんで何とも思っていないのですよ。」そのオウエンの語調には蔑視と憐憫の感情が透けて見える。開明的なオウエンにしてこうであり、その差別意識は知識階層にも行きわたっていた。
 一九二六年にケンブリッジ大学を訪れた物理学者長岡半太郎が記している。ケンブリッジは幾つものカレッジからなるが、一九世紀の大物理学者ウィリアム・トムソンの学んだカレッジがあまりにも貧弱なので尋ねたところ「この校はスコットランド生まれの人が来るところで、純イギリス人と別になっている」と聞かされたとある。きわめつけは、ニュートンをはじめケンブリッジに縁のある学者の像の前での話。「そこで余が不審を喚び起したのはマクスウェルの像の建てられていないことである。古今を通じ世界第一の物理学者と近頃賞讃せらるるマクスウェルの像は何處にありますかとラーモアに質問したところ、先生いわく、あの人はスコットランド生まれであった。」(『一週間の劍橋大学寄宿舎生活』)
 ところで、近代物理学におけるもっとも基本的な理論は熱力学だ。孤立系においてはエネルギーが保存し、エントロピーが減少することはないという原理(熱力学第一・第二法則)は、自然と技術のすべての法則が従わねばならない基本的枠組みである。そしてイギリスでその熱力学を作り上げるのにもっとも貢献したのは、じつはスコットランドであった。
 熱の科学の近代数理物理学としての端緒は、スコットランドの商業都市グラスゴーの大学のジョーゼフ・ブラックが熱と温度を概念的に区別したことにある。オウエンがスコットランド入りをするほぼ半世紀前である。その時代にグラスゴーはまた、経済学者アダム・スミス、哲学者デービッド・ヒューム、地質学者ジェームス・ハットン等の、各分野における第一級の学者を輩出している。
 そのグラスゴー大学で実験機材の修理に携わっていた技術者ジェームス・ワットがそれまでのニューコメン機関の改良に取り組み、やがてはるかに優れた蒸気機関を作り上げることに成功したことはよく知られている。一七六〇年代であり、それが産業革命を推し進め、大規模な工業化社会形成の推進力になったことは、あらためて贅言を要さない。
 ワット機関は、理論面においても熱学原理の形成に大きな役割を果たした。実際、一八二四年にフランスの青年カルノーが後に熱力学の原理(熱力学第二法則)に導くことになるカルノーの定理を提唱したのは、ワット機関を対象化することによってであった。そして四半世紀にわたって理解されることなく見失われていたカルノー理論の真の意義と重要性を初めて見抜き、絶対温度の理論的基礎を確立し熱力学第二法則を提唱した人物こそ、グラスゴー出身のかのウィリアム・トムソンであった。トムソンはまた熱力学第一法則への道を開いた在野の青年ジュールの実験に初めて注目したことでも知られる。
 ちなみに電磁気学の基礎を作り上げ、その方程式に名を残すマクスウェルもまた、前記のようにスコットランドの出である。なんのことはない。一八・一九世紀のイギリスで物理学研究の先端を担ったのはオクスブリッジの「純イギリス人」エリートではなく、その多くがスコティッシュであった。
 それにしてもトムソンやマクスウェルのケンブリッジにおける冷遇には、「文明の国」大英帝国を訪れた長岡半太郎もさぞかし驚いたことであろう。最先端の近代科学もナショナリズムという文明の病には勝てなかったのである。
(やまもと・よしたか 予備校講師)

『熱学思想の史的展開1 ―熱とエントロピー』(全3巻)
山本義隆
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