いちばん大事なことは母語で考えている/岩城けいインタビュー 聞き手・瀧井朝世

――このたびは太宰治賞受賞おめでとうございます。受賞作『さようなら、オレンジ』はオーストラリアの田舎町が舞台。岩城さんも在豪二十年だそうですが、執筆のきっかけは。
岩城けい 学生時代に十二週間、語学留学をして、社会人になってからまた半年間行きました。その時のホスト・ファミリーが日本の機械を輸入している会社を経営していて、そこで働かないかと誘われたんです。その後、相手は日本人ですが、結婚してそのままいることになりました。オーストラリア南東のヴィクトリア州に住んでいます。
――受賞作はアフリカ難民のサリマと、同じ町に暮らすサユリという日本人女性の二人が英語と向き合う姿が交互に描かれます。これは実体験がベースにあるのですか。
岩城 私には子供が二人いるのですが、五、六年前に上の子が幼稚園に入った時、アフリカ系のお母さんがいたんです。全然英語が話せなくて、先生とも他のお母さんとも会話ができない。私もどうやって声をかけていいかわからなかった。一人ぼっちでオドオドしている姿を見て、私にもこういう経験があったなと思い出しました。オーストラリアは移民の国ですが、私が住んでいるのはアイリッシュが作った町なので黒人が少ないこともあり、強く印象に残りました。それで、もともとエッセイ的なものをパソコンで書いていて、そのお母さんのことも書いたんです。古くなった文章は削除していくんですが、その文章は何回見直しても消せませんでした。実はその時書いたのが小説の冒頭、仕事を終えたサリマが帰宅してシャワーを浴びる場面です。最初に書いた時からほとんど直していません。
――その後時間を経て、続きを書いたわけですね。
岩城 二年くらいそのままにしたんですが、サリマに幸せになってほしいという気持ちがあって、完成させることにしました。自分もメルボルンの語学学校に通っていた経験もあるので教室の雰囲気は分かりますし、英語が話せない人が精肉工場などで働くという状況も分かっていましたし。調べものでいちばん大変だったのは移民法。移民局にどういう人が認定されるのか話を聞きにいきましたが、概要はあるもののケース・バイ・ケースだという回答でした。
 その時はまだサユリの部分はありませんでした。書きあげた頃、母と電話で話していたら「どこかに応募したほうがいい」と言われたんです。力試しにと文藝賞に出したら最終選考まで残りました。その時の選評に「日本人が出てこないから訴えてこない」みたいなことが書かれてあったんです。的確なことをおっしゃるなと思いました。でも、サリマの話は無国籍にしたので、そこにどう日本人の視点を入れたらよいのかなかなか分からなかったんです。一年ほどしてから、サリマの話とは切り離したものとして、サユリの部分を書きはじめました。私自身がモデルというわけではなく、私のような外国で暮らす人みんなの経験が反映されている人物です。
――第二言語を獲得しようと懸命な二人ですが。
岩城 サリマはとても立派な人だと思いますが、言葉が通じないから相手にしてもらえない、ほしいものが手に入らない。だから必死なんです。サユリはある程度英語は話せるけれど、抽象的なことが母語でしか伝わらずにイライラしている。私自身も、日常会話は英語でできますが、例えば本の話を英語でしようとするんですけれどなかなかできない。できたとしても、どこまで伝わっているかが分からない。でもそれは、最終的に乗り越えられなくていいと思っています。どの人もいちばん大事なことは母語で考えているものですから。
――他の人物では、サユリが新聞を読んであげるトラッキーや、サリマが勤める精肉工場の監督が印象に残ります。
岩城 トラッキーは人気がありますね(笑)。監督はあまり読者に言及されませんが、彼はその町の生まれ育ちなのに輪から外れてしまった人なんです。オーストラリアは仲間を大切にするマイトシップの国ですから、輪から外れると苦しい。でもそうした人たちも、最後には笑えるようになっていてほしい、と思いながら書いていきました。
――サリマが息子の学校に呼ばれ、故郷についての自作の英文を読む場面は非常に感動的でした。
岩城 これは絶対に必要な場面でした。実はこのサリマの作文がいちばん難しかったんです。短い文章で力強く、この人の朴訥さを出しながら、伝わるように書かなくてはいけないので。サリマの故郷は限定したくないので明確にしていませんが、私が幼稚園で見たお母さんがスーダンから来た人だったので、スーダンの生活についてかなり調べました。
――途中で、サユリの夫婦が友人らに送った英文メールが挿入されますよね。メールの書式のままで載っていてインパクトがありました。
岩城 日本の読者が見た時に、最初はおやっと思って、英語か、面倒くさいなと思いながらも読んで、内容が分かったという体験をしていただこうと思いました。サリマやサユリが英語を理解した時に感じた喜びを、体験してもらいたかったんです。
――終盤にこの小説の構成が何を意味していたのかが明らかになって、これも読者を驚かせます。
岩城 選評で三浦しをんさんに怒られました(笑)。へこみましたけれど、私のために言ってくださっていることは分かりましたし、おっしゃることはすごく当たっていると思います。単行本にする際に書き直すようにも言われましたが、でも微妙なところで加減して作ったものなので、手直しできませんでした。
――今後はどのような作品を書こうと思っていますか。また、好きな小説、作家はいますか。
岩城 アイデアはいろいろあるんですけれど、なかなか形になりません。好きな作家はインド系アメリカ人のジュンパ・ラヒリです。短いものは英語で読み、長編は日本語で読みました。読むたびに泣いています。異邦人をものすごく上手く書く。私のように文章がしつこくなく、さらっと書いているんですよね。
――この先、英語で小説を書こうとは思いますか。
岩城 文章を書きはじめた時、最初は英語だったんです。でも難しくて日本語にしました。今後英語で創作することはないですね。私の子供を見ていると、英語の作文を書く時は考え方もオーストラリア人、日本語の作文の時は日本人になっている。ハイブリッドなんです。あれは絶対に真似できない。ああいう人が書いた小説が今後たくさん出てくると思います。私は過渡期の人間なんです。(2013年9月3日)

オーストラリア、ヴィクトリア州自宅近くの海辺にて

岩城けい著 『さようなら、オレンジ』詳細

 

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