路地に呼ばわる声/小沢信男

 裏町はどこでも一見貧しくて、気がおけなくて、はじめて通る道でさえ、なかば懐かしい。たぶん目に映るものたちが、軒の看板も、植木鉢も、洗濯物も、ゴミバケツも、みんな人間臭いせいだろうな、勝手知ったる気分になります。
 小沢昭一写真集『昭和の肖像〈町〉』をめくってゆくと、そんな横丁や路地たちが続々あらわれてくるではないか。以前は大工さんも左官屋さんも、道端で鉋をかけ、壁土をこねていた。そうしてできた家並が下見板張りの茶色い姿でならんでいた。いうならば町ぜんたいが手造りなのでした。やがて防火対策のモルタル造りが奨励されて、その灰色と茶色のいりまじりが、戦前戦後の東京の色だった。この写真集は一九七〇年代に集中的に撮られているらしいが、そうか、あのころの裏町暮らしはけっこう元気に多彩な昭和だったんだ!
 いまでもさほど変わりはないさ、三社祭も、ほおずき市も。と思う一面、四十年の推移は、さすがに一昔を越えている。町歩きのおばさまたちがいっせいに着物姿の大群でいるのが、おどろきだ。おもえばわが家でも、母は夏場以外は着物で通していた。写真のなかのご年配衆はみんな明治生まれだぞ。
 石焼き芋屋、おでん屋、ところてん屋、洋傘修理、天秤棒の物売り屋。この路上の小商売の方々にも、そこらで出会えていたのだな。根岸の紙芝居屋などは、当時すでに消滅業種につき幻のごとく霞んで写っているが。小沢昭一氏は常時カメラを持ち歩き、とりわけこの時期に集中的に撮りまくったのでありましょうか。この記録魔は、危機感の裏打ちかもしれません。
 写真に関連して収録のコラムの数々も味わい深い。「道の商いの売り声」は二〇〇一年の文で、あんなに盛んだった路上の小商いたちがほぼ絶滅したことを記します。街の風物詩と懐かしむのではない。納豆売りも按摩の笛も切ない稼業で、その貧しさの克服ならばけっこうだが、あのケナゲさが慕わしい、と。まさに同感。貧しさへ立ちむかうあの多様な活路を見失って、代わりにわれらは何を得たのか。就活一本槍でネットカフェ難民の、やたら単調な貧困へまっしぐらの昨今ではないのか? とでもいうふうに、この写真集は問いかけてくるのでした。
 都電は、当時すでに荒川線が残ったのみ。飛鳥山のカーヴも三ノ輪終点も、空の広さよ。荒川車庫を訪ねての「都電えれじい」は、機械文明と人間のほどよい調和の象徴として都電を語る。「人類は便利文明を発達させる力をためていた方がいいんじゃないか。」そうですよ。むだなリニア新線までつくりだす能力で、どうして市街電車の改良普及に努めなかったのか。ヨーロッパの諸都市でスマートな市電が健在なのを見聞きすれば、人類滅亡期に最後まで生き残るのはやはり彼らかな、と思わざるをえません。右は一九七四年の文ですが、原発崩壊のこんにちを警告していたごとくではないですか。
 それにしてもこの写真集は、みれども飽かぬ本であるなぁ。山谷堀はまだ堀で舟が浮かんでいたんだ。被官稲荷の鳥居たちはいまもこのままだろうな。勝手知ったる気安さでつい見逃しそうな路上光景たちを、ふしぎにかえってこの人は、さりげなく発見しなおす。一枚一枚がその報告なのですね。向島料亭街の人影のなさも、旧鳩の街の細かいタイル張りの柱も。そのすなおな目線にひきこまれて、ついこちらも撮影者とともに立ち止まり見入ってしまう。
 ときにはその眼を丸くする。「吉永小百合さん御愛用のおパンテー入りました」「元祖助平うどん」「世界一高雅なおにぎり」「トルコ大学泡学部」エトセトラの看板文字たちの、意表にでた自在さよ。表現というものの根源の力に向きあっているような感銘をおぼえます。
 まことに、小沢昭一は死なず、予言者のごとく路地に呼ばわる声がする。
(おざわ・のぶお 作家)

小沢昭一著『写真集 昭和の肖像〈町〉』詳細

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