白鳥警部射殺事件が今に語りかけるもの/後藤篤志

 街角のラジオから「テネシーワルツ」が流れていた一九五二年冬、札幌で自転車に乗った警察官がピストルで射殺された。
 敗戦後、獄中から解放された共産党員は平和革命を唱えたが、朝鮮戦争の勃発とレッドパージの嵐が吹き荒れる中で、地下活動を強いられた。殺された白鳥一雄警部は共産党の弾圧に辣腕をふるっていた。党は分裂し武装闘争路線を走った。文字通り地下で戦う炭鉱労働者を多く抱えた北海道はその拠点だった。拳銃を集め火炎瓶や手榴弾を作り、占領軍や警察に実力で戦いを挑んでいた若者たちがいたのはまぎれもない事実だ。
 捜査当局は「日本共産党札幌委員会の村上国治委員長の指示により、労働者、北海道大学の学生らが白鳥警部を射殺するという共同謀議をはかり、尾行して実際に殺害に及んだ」として、村上らを起訴した。しかし、射殺実行犯とされる労働者党員や北大生は漁船で焼津港から中国へ亡命し、行方不明という異常な事態の中で白鳥事件の裁判は進行した。
 司法の場で検察のストーリーは最後まで維持された。徹頭徹尾、無罪を主張した村上は懲役二〇年確定後も冤罪を訴えて再審請求を行った。最高裁は再審請求を棄却したものの、「疑わしきは被告人の利益に、という刑事裁判の鉄則が再審でもはたらく」という画期的な判断を示した。この「白鳥決定」で死刑が確定していた四人が死刑台から救われる道が開かれた。
 私は、この白鳥事件の取材を続ける中で、若者たちがテロリストになることも覚悟して「武力革命」に走った空気がどのように醸成されたのか、に関心を持ち、時代のメンタリティーを探った。当時の若者たちは日米軍事同盟の下、日本が逆コースで再び戦前に戻ってしまうという強い危機感を抱き最前線で戦っていた。白鳥事件の犯行に関わったとされる北大生らは獄中につながれ転向を迫られ、中には発狂した者もいる。地下に潜り、中国へ逃亡した若者たちのうち、あるものはその地で生涯を終え、ある者は日本に帰国した後、いまだに闇に潜んでいる。
 白鳥事件から六〇年目にして、中国に逃亡し生き残っていた八三歳の元北大生が死亡した。北海道警は海外逃亡による時効停止で彼の逮捕状を今も更新し続けている。死んだはずの容疑者だが「日本を出国し中国で死んだ」という確認が取れず事件は公式的にはまだ生きている。そして生きながらも死んでいる。
 事件当時の学生達も八〇歳を超え白髪の老人になった。沈黙を守ってきた彼らだが、晩年になって少しずつ事件について語り始めた。彼らの重いつぶやきを重ね合わせると意外とも思える事件の核心部分が浮かび上がってきた。謎とされてきた戦後史のブラックホール、白鳥事件から六〇年を過ぎて明らかになる真実を追いながら、十字架のように事件を背負い続けた学生たちの青春の光と長い影法師を辿った。
 白鳥事件が起きた前後は戦後日本の進路をめぐって、混迷するテーマをまるごとはらんだ時代だった。日米軍事同盟、沖縄問題、原発問題しかりである。事態は深刻さを増し、今日に至っている。日米軍事同盟は強化され、アメリカから軍事情報漏洩での圧力を受け、原発テロの恐れもある、として安倍政権は特定秘密保護法をなりふり構わず、反対勢力を分断しつつ制定しようとしている。
 松本清張の「日本の黒い霧」のひとつにもあげられた白鳥事件。犯行グループが拳銃射撃訓練をし、長い間山中に埋もれ錆びているはずの弾丸がピカピカの状態で発見された。それが唯一の物証だった。白鳥事件についてシロクロをあいまいにしながら、当時の政権は思惑通り共産党を壊滅状態にした。占領軍という絶対権力に従属した政権が行ったレッドパージの果てに起きた白鳥事件は、決して遠い日のできごとではなく、多くの歴史的教訓をはらんだ事件でもある。
(ごとう・あつし ジャーナリスト)

『亡命者 白鳥警部射殺事件の闇』詳細
後藤篤志著

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