素白の目、素白の耳/高遠弘美

 岩本素白を読み始めてからそろそろ四十年が経つ。私事にわたって恐縮ながら、まずは素白との関わりから書いてみたい。
 一九七四年のことである。当時仏文科修士課程に入ったばかりの私は、村上菊一郎先生の研究室によくお邪魔してはフランス文学のみならず、日本文学の話を伺っていた。あるとき、大学近くの交差点で私に気がついた先生が仰った。
「ソハクの全集が出たね」
 冷汗が出た。ソハクと耳に聞こえた人名らしき音にまったく思い当たるところがなかったからである。正直に知らない旨を申し上げると、先生は冷ややかな笑いを秘めてこう返された。
「なんだ。君はふだん、日本文学をずいぶん読んでいると言いながら、素白も知らないのか」
 私は先生に一礼してすぐに本屋に向かって『岩本素白全集』(春秋社)第一巻を買った。その日のうちに読み切って、素白の文章に打たれた私は自らの不明を恥じた。と同時に、師恩というのはこういう形でもたらされることがあると深く心に刻んだ。その後、三巻まで出た『全集』だけでなく、『山居俗情』(砂子屋書房、一九三八)『日本文学の写実精神』(中央公論社、一九四三)『素白集』(東京出版、一九四七)『素白随筆』(春秋社、一九六三)も手に入れた。
 この際だからもう少し書いておきたい。
 一九八〇年代から九〇年代にかけて、ある随筆シリーズの資料集めの手伝いや著者紹介の執筆などをしていたことがある。そのシリーズには素白の随筆が何本も収録されているが、その底本となったのはすべて私の手持ちの素白だった。
 種村季弘先生に目をかけて頂いたそもそものきっかけも素白だったと思う。國學院大學に非常勤で行っていたとき、先生と一緒の時間帯があって、休み時間にさまざまなお話を伺っていたのだが、ふと素白の名前を出したのがきっかけで、素白の愛読者だった種村先生は私のことを気にかけて下さるようになったのだ。「そうか。あなたは素白が好きなんだね」と仰ったときの先生の満面の笑みはいまだに忘れられない。
 今回、素白を読み返して改めて感銘を受けたのは、周囲の事物に対する細やかさ、わけてもちらりと垣間見た光景や偶々耳に入った音に対する鋭敏さである。
 電車から一瞬「一筋の火の流れ」と見えた横丁の夜店の灯りを素白は見逃すことなく記憶に刻み込む。素白の耳は、夜釣りの竿の先の鈴の音も風に鳴る物干し竿の音も幽かな絃声や鼓音も逃さない。今回の選集に入っていない作品でも同様だ。「六日月」から情景と音のみごとな描写を一つずつ引用してみる。
 「今までつい気がつかなかった六日の月が、眉を上げた空の辺りに細く冴えた光を懸けて居るのを美しいと思った」
 「参詣人の石畳を歩く音、賽銭箱に小銭の当る音までが、遠く離れた辺りへ幽かに聞えてくるのも流石に秋らしい」
 かくして六日の月は木立の蔭の宵闇を、小銭の音はあたりの静けさをいっそう際立たせる。散歩のときも微恙で部屋で休むときも素白は聴覚と視覚を全開にしていたようにみえる。
 目に映ずる外界の風景、耳に響くかそけき音。そうしたすべてが人生の時間の重要な要素であるかのように素白は日常を生き、それを落ち着いた行文、的確無比な言葉で書きつけた。
 この世に生きてある限り、何の変哲もないように思われる現象や存在が、じつは日常という、ともすれば無為に過ごしかねない時間にいのちを与えていることを素白はさりげなく示している。プルーストのうちにやはり日常に対する鋭敏な眼差しを感じていた若き私が、日常を形作るさまざまな要素、つまりはつい見逃しがちな過ぎゆく現在や消え去った過去を、具体的な音や情景や事物の記憶を通じて書き続けた素白や泣菫の随筆に夢中になったのはむしろ当然だったのかもしれない。
(たかとお・ひろみ 明治大学教授・フランス文学)


『素湯のような話 お菓子に散歩に骨董屋』詳細
岩本素白著 早川茉莉編


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