底辺の本/上原善広

 この本は打ち合わせがあってから完成まで三年ほどかかっている。
 提案された時期は、私がちょうど受賞が重なっていた頃で、それまで閑だったのが急に忙しくなったからだが、もちろんそれは表向きの理由だ。私のささやかなバブル時代は、わずか数カ月しか続かなかったからである。
 実はちょうどその頃、私は女性問題でたいへん揉めていて、それがきっかけとなって双極性障害(躁鬱病)を発症して寝込んでいたので、新書とはいえ、とても一冊の本を上梓するような状態ではなかったというのが本当のところで、三年かけてコツコツ書いていたわけではない。
 いや、三年前から少しずつ手をつけていたのは確かで、担当の金子千里氏にも「少しずつ書いています」と、言いわけメールを送っていたのは事実である。しかし一章分くらい書いてから二年が経ってしまった。
 さらに、ずっと以前より他社からも新書を書き下ろす話が進んでおり、順番からいっても本来なら先にこちらを書かなくてはならなかったのだが、これは今も一章分を書いたところで止まってしまっている。しかしすでに些少だが手付け金をもらっているので、いずれ書かねばならないのだが、いつになるのかわからない。こうした不義理を重ねて、しかもたいして売れていない私は、いずれそう遠くない日に編集諸氏から見捨てられてしまうのだろう。
 売れっ子のエンタメ作家か、逆に売れない純文作家が「書けない」というと、なんとなく格好良いように思うが、「売れないノンフィクション作家」が「書けない」というのは出版界では一笑に付されるのがオチで、さらに精神に病をえたというと目も当てられない。
 焦った私は、当時は人形町に住んでいたので、打ち合わせと称して金子氏を呼び出しては謝罪という名目でいわゆる高級な飯屋をほっつき歩いていた。
 その頃の私は、一緒に住んでいた女性から追い出され、仕事部屋として借りていた一〇畳一間のアパートで本に囲まれて暮らしていたので、金の使い道に困っていた。いま思えば何も入ってくる金を全て使わないで貯金しておけば良かったのだが、とにかく食事を一緒にとってくれれば誰でも良かったのである。しかしいま思えば、当時まだ独身であった金子氏を口説くことがなかったのはどういうわけだろう? 金子氏のあしらいがよほど巧妙だったのかもしれない。
 こうしていわゆる高級店を渡り歩いていたのも、いま思えば躁状態のなせる業であった。それまでの私は出版経費で大いに食べてんでタクシー券までいただいて礼も言わないクチで、編集諸氏に一銭たりとも金を使ったことなどなかったからである。しかし躁状態でなかったとしても、いわゆる高級店で筑摩書房が売れないノンフィクション作家を接待してくれるようには思えないから、回想すれば、自腹とはいえ行っておいて良かったじゃないか……こう私は自らを慰めるのである。
 本書きは短くても半年くらい先の仕事をしている。原稿を書いても、入ってくるのは半年以上先だ。だから当時書くことのできなかった私は、昨年から極端に食うに困るようになった。
 そのため本書を書き上げた後、私は金子氏に一刻も早く印税を前払いしてもらわなければならなかった。ここでかつて金子氏にゴチしていたことが、私を強気にさせた。その前借り金はこれを書いている時点でもはや全て失せてしまったが、それでも心からこの本が出て助かったと私は思っている。売れなかったらもちろん、全て私の責任である。
(うえはら・よしひろ ノンフィクション作家)

『路地の教室』詳細
上原善広著

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