マエストロの秘密/中地義和
リヒテルがモスクワで八十二年の生涯を閉じたのは、一九九七年の夏である。以来、この二十世紀屈指のピアニストは、忘却の淵に沈むどころか、世の音楽愛好家を惹きつけてやまないらしい。発掘資料に基づく新たなライヴ盤、廃盤の復刻、セット物としての再発売などが、今もって途切れることがない。十四枚組の「ハンガリーのリヒテル(一九五四―九三)」(二〇〇九年)をはじめ、今日の高い再生技術で実現されたディスクは、彼の生演奏を聴いた者の記憶に、往時の演奏の桁外れな迫力と奏者の強烈な存在感を蘇らせ、その経験がない若い世代にも、このピアニストの真価を相当程度に知る機会を与えてくれる。
リヒテルの死後、ともに生前の彼と親しい関係にあった著者による本が三冊刊行された。グールド、メニューイン、オイストラフらをめぐる優れた映像作品を手がけたブリューノ・モンサンジョンが、晩年のリヒテルを相手に行なった一連のインタヴューを問わず語りの自叙伝に書き直した『リヒテル』、一九七○年の初来日に際して通訳を務めて以来厚い信頼を得て、付き人チームの一員として奉仕した河島みどりの『リヒテルと私』、そして、モスクワ芸術劇場に拠る若い演出家ユーリー・ボリソフが、仕事の依頼を通じて親しくなったリヒテルの言葉を書き留めたメモに基づく『リヒテルは語る』である。
なかでも、一九七九年から数年間にわたる親密で頻繁な交流から生まれたボリソフの本は、六十四歳の巨匠が二十三歳の新米演出家を相手に語る、屈託のない、からかうような話のなかに、彼の芸術的想像力がはらむ狂気の部分を垣間見させて、驚くべきリヒテル像を浮かび上がらせる。
リヒテルによれば、シューベルトのソナタイ短調(D七八四)は「天地創造」の表象であり、第一楽章の提示部では「神の片方の掌からは海が、もう一方の掌からは山が生まれる」。シューマン「交響的練習曲」の第十曲は「鷲の交尾」であり、ブラームスの「ピアノ協奏曲第二番」はアポロンの生涯を表している。こうした連想のなかには、表情記号ないし楽想指定の延長とみなせる例もある。しかしリヒテルが「標題」と呼び、ボリソフが「リヒテルのレチタティーヴォ」と呼ぶ物語的転置は、書物の随所にちりばめられ、なかば偏執的な様相を見せる。
たとえばバッハ「平均律第二巻」の二十四曲は、オデッサにおける少年時代、上京後スターリンの死まで、自由を獲得した現在、に三等分され、自身の半生の流れに重ね合わせられる。一般には恣意的にしか見えないこの操作を、リヒテルはいたってまじめに、平然と、解説している。こうした傾きは、師のネイガウスから受けた教育に由来し、当初はブラームスの「ラプソディロ短調」が喚起する物語を問われても答えられなかったという。もっとも、すべての音楽がこうした連想を触発するわけではなく、楽曲の牽引力が強いほど好んで標題的把握を企てるようだ。そういえば、昨秋来日したペライアも、終演後のインタヴューで、ベートーヴェンへのシェイクスピアの影響を根拠に、「熱情ソナタ」の第一楽章は『ハムレット』冒頭の亡霊の出現、第二楽章は亡き王への祈り、第三楽章はハムレットの復讐、という解釈に基づいて弾いていると語っていた。
リヒテルの連想は、ギリシア・ローマ神話、旧約聖書からプルースト、マンにいたる文学をはじめ、オペラ、バレエ、演劇、絵画、映画など、音楽以外の芸術や文化的記憶に向かうことが多く、彼の貪欲な好奇心と広範な教養をうかがわせる。この種の連想は一見荒唐無稽であるが、このピアニストが目指していたのは、芸術ジャンルの仕切りよりも深いところで作動するプリミティヴな想像力によって楽想を新たに捉え直し、演奏の駆動力を汲むことであったように思われる。ボリソフが克明に書き留めたリヒテルの言葉は、無防備なまでの率直さで、客席からは見えない演奏者の内的運動を開いてみせる。
(なかじ・よしかず 東京大学教授・フランス文学)
ユーリー・ボリソフ著/宮澤淳一訳『リヒテルは語る』詳細
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