二〇〇七年五月八日、第二十三回太宰治賞の選考委員会が、三鷹市の文化施設「みたか井心亭」で開かれました。 選考委員四氏(高井有一、柴田翔、加藤典洋、小川洋子)による厳正な選考の結果、受賞作として選ばれたのは、瀬川深「mit Tuba」でした。 最終候補となった四作品を、選考委員はどう読んだのでしょうか。 四氏による選評です。
最終選考に残ったのは四編。それぞれに異なる作風の作品が並び、やや苦しいなかにもほのかな希望の感じられる選考会となった。
芦崎凪さんの「首輪」は、謎の天才小説家に憧れる私が、その家政婦募集を見つけて応募し、小説家と一緒に暮らしはじめる話である。ある日気がつくと「私」の首に首輪がまかれており、やがて二人はのっぴきならない関係へと踏み込んでいく。しかし、「天才」というのはなかなか難しい概念で、これがそのまま小説の中に入ってくると世界がとたんにお風呂屋さんの書き割りみたいになってしまう。これは選考の際にも言ったことだが、天才などというものは、その場では、そんな言葉を思い浮かばせないものなのではないか。後で考えてみたら、あれは、天才みたいな人間だったなあ、と感じることはあるにしても。また、うすうす、そう感じさせはしても。そこで口に出すのを押さえ込む風圧をもつものなのではないか。これでいっぺんに世界の質が変わってしまう。文章の魅力に乏しい、ということもあるけれども、評者には結局この「書き割りふうの世界」に入り込むことが難しかった。
橙貴生さんの「月がゆがんでる」は十四歳の少女が学校で友達との人間関係にほどほどに疲れつつ過ごしながら、問題含みの家での父母との生活の傍ら、ゲイの年上の男性と知り合い、その勤めるバーに夜な夜な通うという話である。学校での生活はどこか、綿矢りさの『蹴りたい背中』ふうながら、かなりひりひりとする臨場感をもって描かれている。また、夜の月の光のもとにある、その名も「ムーンライト」というゲイ・バーにたむろする人々も、それなりに好ましい雰囲気を持ち合わせている。しかし、ふたつの世界の蝶番をなすはずの「家」での生活が、どうも薄い。というか、触ると壁土のようにぼろぼろと欠けてくる。材料はあるものの、それを材料にするところのもの、サムシングに欠けている。ちょうどおかずはそろっているのだが、ご飯がない食事のよう。よい小説には、気づかれないけれども、そうか、ご飯がふっくらと用意してあるわけか、と逆に気づかせられるようなところが、この小説にはあった。たぶん、具体的には、家が壊れる。そのことの痛みが、ほぼ小説に見えてこないあたり、何かサスペンスを感じさせる出奔した兄の存在が、それほど小説の中にしっかりと根を下ろしていないあたりが、こういう印象の出所なのだろう。でも、もっと言うと、問題はそういうことではないのだとも言える。結局、そういうことの効果として、すべてが「作られている」。いったん揺さぶって動かそうと思ったら、タンスも柱も全部ぐらぐらと動いてしまう家の中にいるよう。ん、これは動かないぞ、というものがない。これは致命的なこの小説の弱さで、読者はやはり読んでいて、最後まで来ると、憮然とせざるをえない。
これらに対し、富久一博さんの「天の河原」は不思議なところをもつ作品だった。中世末期、豊臣秀吉が聚楽第を作った頃の京都を舞台にした天部の民と呼ばれる河原者の一統の人々の物語。主人公は十四歳の娘の鮎で、そこに血のつながらない兄の百日、親方与兵衛、その息子の赤、ゆえあって彼らの里に流される貴人の娘九条様とその付き人あかねなど、さまざまな人物が描き分けられる。その手腕はなかなかのもので、読んでいて、気持ちがよい。鮎と百日の関係が終わる最後の展開も、ありがちではなく、物語に「タメ」がある。しかし、作者は何が書きたくて、この小説を書いたのか。選考の場で述べた筆者の質問に、ある委員から、この人は「小説」を書きたかったのではないか、という答えが寄せられ、得心したが、「小説」を書きたい、というのは、ここでは、恋に恋する乙女、というほどの意味である。主人公「わたし」のビルドゥングス・ロマンなのか、天部の民の群像の物語なのか、それとも恋愛を核とした主人公の女の物語なのか、そのあたりの見極めのない書かれ方が、この小説をよく出来た、大衆小説の一種にしている。時代小説、閉ざされた集団の物語。そういう「型」がこの小説を書きやすくさせている。書き手が困難に出会っていない。困難に出会う書き方になっていない。そこが大いに物足りない。ここまでは何の不思議もない普通の小説だが、不思議といったのは、やはりこの終わり方で、何となく、この書き手が全く別の、とても不器用な小説のほうにでも手を広げたら、どんなものになるのだろうか、という思いが残ったことを指している。さあ。どんな小説になるだろうか。
最後に残った瀬川深さんの「mit Tuba」は、全体として、少し野太い感じはあるけれども、文章の感じにめずらしく、安心、信頼できるものがあった。文章の向こうに一人の人間がいる、その人の感じが、なかなかに奥ゆかしい。先ほどのたとえで言うと、いくら揺さぶってもどこかにびくとも動かないものがある、感じである。作品は、チューバという巨大な、規格外の楽器と出会い、それに憑かれた一人の女性の「チューバとともに」生きる生活の流れを、少女の時代から二十六歳の現在まで追う。中学校でこの楽器で出会う、そこでの小太りの上級生の点描は、選考の場でも言及があったけれども、心に残る。やがて高校、大学へと進学し、就職。その後も、この楽器の余韻が体の底に残っている。そのあたりの感じがよく出ている。アルバイトで作ったお金でこの楽器を購入する。とはいえ、部屋では鳴らせない。河原まで運んでいって音を出す。これだけ大きな楽器を抱えては電車にもおいそれと乗れないわけであり、何か図体の大きな、時代からはずれた不器用な「傾向」を抱えた一人の人間がここにいる、そんな感じも、言葉の向こうからゆるゆると浮かび上がってくる。やがて男性とのつきあいなども生じる。このあたりの細部の人間関係の描き方に、面白いところがあり、やはり気持ちよく読みすすめることができる。楽団仲間の黒帽子との関係、勤め先の男との関係が、予想外の進展を見せたり、最後まではっきりしないところにも生動感があり、小説としてのスジのよさを感じもするのだが、最後、音楽との合一めいたところで終わるのが、筆者には、小説として、物足りなかった。ここはもう少し何とかなるべきでは? もう少し言うと、ここでもう少しだけ、悪あがきであっても、先に行こうとしてむなしく固い壁に爪を立てるのが、小説なのでは? という感じが残った。
しかし、このほんの少し小説未満であるところ、それがこの小説の持ち味なのかもしれない。柴田委員が強く推す、その言葉を聞いて、そんな気にもなった。実を言えば、誰か強く推す人がいて、ほっとする思いもあったのである。