太宰治賞

 

第二十四回太宰治賞選評

2008年5月8日、第24回太宰治賞の選考委員会が、三鷹市の文化施設「みたか井心亭」で開かれました。 選考委員4氏(高井有一、柴田翔、加藤典洋、小川洋子)による厳正な選考の結果、受賞作として選ばれたのは、永瀬直矢「ロミオとインディアナ」でした。 最終候補となった4作品を、選考委員はどう読んだのでしょうか。 4氏による選評です。

新しい力作

加藤典洋 評論家
 今回は一九九九年にこの賞が三鷹市との共催で再開されてから十回目の選考にあたる。復活第一回からの選考委員である高井有一、柴田翔両委員と仕事させていただく最後の回。これまでの、さまざまな選考対象作が思い出される感慨深い選考になった。
 最終選考に残ったのは四作。読むのに骨の折れる作品が多かったが、感想は一言で述べれば、少なくとも私にとっては望みなきにしもあらず、である。
 川光俊哉さんの「夏の魔法と少年」は、無職のまま一人住む自宅で無為に過ごしている私のところに、不登校の甥がやってくる。このように話の骨格を取り出すと、どんなふうにも物語が広がりそうな気配がある。たとえば、長嶋有さんがこういうものを書くならどんなふうになるだろうかとか。でも、川光さんの小説はそのようにはなってくれない。主人公も少年も無為のさなかにあるが、そこで彼らを生きさせているものが、作者の手に握られていない。そのことは、この小説に、この無為をこそ通して感じられてくるはずの、ここに出てこない人びとが、まったく登場しないばかりでなく、存在していないかのようであるところによく表れていると思う。「私」は両親の家に住んでいる。両親は別の場所で生活している。しかし、この「私」が、この(両親の)家を甥に譲る旨の遺言書を書こうか、などという話が出てきても、本当にそんな話がバカみたいだとは、作者は思っていないかのようでもある。このあたりの作者の無為へのもたれかかりが、この小説の世界を読み手にとってあてどのないものにしている。こういう小説では、人は、動かされないだろう。
 江口隣太郎さんの「夜は朝まで」は、なぜかわからないが、最後、高校生の主人公が投身自殺するらしいくだりの文章がのびやかなのが、よかった。しかし、そこに至るまでの話は、細部にちょっとした面白味があるとしても、当てずっぽうに書かれたものを読まされているような気持ちの悪さがある。それは言ってみれば、震災に遭い、プレファブの建物に住むことになったが、その造りの悪さ、手抜き工事のあとに、生活のいちいちの場面でぶつかる、という感じである。あとで、作者がまだ十代の人であることが知らされたが、その事実を知らされても、ほほう、とか、えっ、そうなの、という驚きが生まれない。道理で、という索然とした気持ちが残るのは、その作品世界に入る人の状況—建物で言えば、そこには震災被災者が住むことになる場合もあるだろう—への想像力が書き手に、決定的に欠けているからだ。他の選考委員から、この作品がもし、別な展開をもつようであったなら、面白いものになったのでは、という懇切な指摘があったが、私にはそういう「とっかかり」も見つけられなかった。ただ、後半、文章が、よくなる。そこに一条の光が見える、とだけ言っておきたい。
 柚木緑子さんの「背守りの花」は、小説としての全体も、文章も、作りすぎ。というより、作者が「作る」ということの意味を理解できていないと思う。たとえば、紙風船を、「はりはりと膨らませていく」にはじまり、田圃からの風が「清々しさの中に微かに香る、渋くて甘い天鵞絨のような匂い」である、と続く冒頭の文の流れからは、ここに書かれている文章の底の浅さに、作者が、全く気づいていないことが「ひしひしと」伝わってくる。子どもができないために離縁となった叔母と姪と入院中の母の三人の女性の暮らしが描かれている。その叔母と、雄株しか国内に存在しない金木犀と、不妊手術を受けた猫を結ぶ「子をなさない」という共通点が語られる過程で、登場人物の一人、「咲子はふと、そういえば金木犀の花には蜜蜂も来ないことに気付いた」とある。しかし、観察を続ける生物学者でもなければ、「蜜蜂が来る」ことには気づけても、ふつう人は、「蜜蜂が来ない」ことには気づけないのではないか。不在に気づくことは、存在に気づくよりも、ずっと難しいことだからである。  あるいは、清掃用具レンタル会社の緊急代替要員である新人のおばさんが、不慣れなため時間の心配から早く訪問する場面。こういう時、おはぎを「二つ」もいただいて最初の客の家に長居するのは、また、長居させてしまうのは、ずいぶんと不都合なのではないか。読んでいてはらはらする。猫の飼い主をみんなして「おばあちゃん」「おばあちゃん」と呼ぶのにも違和感をもつ。この小説の登場人物たちは、自分たちを繊細な人々と思っているらしいことが、この小説の端々から窺われるが、生活の次元ではずいぶんと鈍感な人々である。そのことにも作者は気づいていないと思う。
 というわけで、私は残った永瀬直矢「ロミオとインディアナ」を強く推した。この作品は、十分に最後の最後まで絞られたチューブのぺったんこさに欠ける。最後が、ちょっとゆるいのが玉に瑕だが、宇宙から見ると大きな鍵穴の形をした古墳(天皇陵?)のすぐそばに住んでいる高校二年の女の子の、日々の気持ちの動きを、両者の対比のうちに書いたらどうなるかな、というのが、作者のしょっぱなの狙いであったことがはっきりと伝わってくる。そこから書き起こされた話がエンターテインメント仕立てになっているわけだが、読んでみて、「エンターテインメント」の枠組みを取り入れて小説世界を作ろうというその姿勢は、必ずしも否定されるべきことではないのではないか、というのがこの作品が私に与えた感想だった。
 一つの文学の可能性として、エンターテインメント小説の枠組みを取り入れる試みは、近年、舞城王太郎、佐藤友哉、古川日出男といった書き手らによって行われている。この作品もこうした動きにつらなるものだ。私としては、エンターテインメントの枠組みを使って面白いところを追求している、その姿勢に、これまでにない吹っ切れた感じを受けた。
 ふつうなら恋愛小説になるところ、それがエンターテインメントの物語に「はぐらかされている」ところがいい。
 作中、高校生の男の子倉内が、「付きあってくれへん、俺と」と主人公の女の子福本惠理に「告白」するが、この小説は恋愛小説にならない。「《…ごめん》。/なんじゃそら。/《…うちまだ、付き合う、とかってよぉわからんねん…》。/なんッじゃそら。」福本惠理は、恋愛に四割くらい関心はあるものの、あとの六割は、いわば宇宙に関心が向いている。好ましい倉内に「告」られながら、目は半分以上、「お空」のほうに向いている。(インディアナって誰だろう……?)
 私はこの小説のこういう「新しいところ」を楽しんだ。
 他にも、文章がとても生き生きしている。避妊に失敗した真樹が、今度はあかんよ、と友達に言われ、「心配ないよ、今度から絶対指さし確認することにしたし」と言う。登場人物がたくさん出てくるのに、その一人一人がしっかり、自分の声をしぐさをもっている。少年少女だけでなく、大人もしっかり描かれている。この先、どんなものを書くだろう。こういう人にはチャンスを与えたい。そう強く思わせるのは、やはり、作品の力だろう。

太宰治賞2008

  • 第24回太宰治賞受賞作 「ロミオとインディアナ」収録
  • 太宰治賞2008
    筑摩書房編集部 編
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