「ちくま」八月号
対談 重松清・華恵

本を読むわたし、本を書くわたし

イラスト:すがわらけいこ

書き手と読み手の「わたし」

華恵 重松 いま華恵さんは十五歳、この本は十五歳の自叙伝だよね。まず最初の一行目で、僕はびっくりした。「国際子ども図書館の中で、本を抱えて笑っているわたしがいる」。写真を見て書いているから当然なんだけれども、ふつうは「わたしは本を抱えて笑っている」と書くと思うのね。「笑っているわたしがいる」というのは、もうその「わたし」を華恵さんが見てるわけだよ。
華恵 そうですね。
重松 一冊通してそうなんだけど、三歳とか四歳とか小学生とか、そのときどきを一生懸命生きている華恵さんの姿があって、それを見ているいまの華恵さんの目がちゃんとあるんだよね。だから、思い出すのがきついというか、苦い思い出だってここには入っているじゃない。そこを書くのはたいへんじゃなかった? 自分のかっこいいとこだけを書いちゃおうとは思わない?
華恵 「書きたくないな」と思って自分の都合のいいことばかり書いていると、どんどん白々しい内容になってしまう、ということがわかりました。最近、書いたあとで、読者の気分になって読み返すようにしてるんですが、そしたら、「ほんとの自分とは違う」と思っちゃって。
重松 なるほど。じゃあ、読み手としての華恵さんというのは相当厳しい人?
華恵 うーん、厳しいというか。この本を自分で選んで買ったとして、それを読んだらどう思うんだろうと。すると、「せっかく買ったのに、なんだよこれ」と思うだろうから。
重松 そのとき、書き手の華恵さんが「せっかく書いたんだからいいじゃん」って反論したりしない?
華恵 ほんとの自分じゃない、いい子ぶってる自分がいて、内容も嘘っぽくて、すごい変な感じで、その変なものがずっと残っているのがいやなんです。それを解消するには、やっぱり自然な感じに書かなくちゃと思う。事実を全部書く、というよりも、本当のことが伝わるように書きたい、と思います。
重松 読んでて、「こんなふうにしなきゃ」とか「このほうがフィットする」という書き手としての華恵さんもいるし、その書き手を甘やかさない読み手としての華恵さんもいるんだろうな。
 こういう思い出話を、「わたし」の話として書き始めちゃうと「私は私だから文句言わないで」というふうに、すごく一直線にいくみたいになるんだよね。でも華恵さんは『小学生日記』の時からそうだけれども、「わたし」がわがままになるのを抑えてる。
華恵 わがままになるというよりも、「これでよかったのかなあ」と心配なんです。後から何回も考えてしまいます。
重松 一番目の 『I Like Me !』、ここから始めようというふうに最初に決めてたの?
華恵 小さかったころ、アメリカで読んだ本といったら、『I Like Me !』がいちばん最初に思い浮かんだので。
重松 『I Like Me !』、ここにも「Me」がいる。この本のタイトル『本を読むわたし』と呼応しているんだよね。でもよく読んでいくと、華恵さんって、決して自分大好きな人じゃない。だから結構苦い思いや、いたたまれない思いとか、居心地が悪いような話も、しっかりと逃げずに書いてる。明るくすっきりブックガイド、みたいな感じでやるんだったら、これは避けるよね。うちも娘がいるからよくわかるんだけど、これぐらいの歳で、自分の苦いところとか後悔とかをしっかり見つめるのは、相当勇気のいることじゃないかと思うんだけど。
華恵 そうですね。時間が経って、ある程度自分の中で消化できたかなと思えることは、ちょっと離れて見て書けたと思います。でも、そうでないことは……最近の苦い思いというのも、いろいろありますけれども、それはまだ書けないですね。大人になるまで消化できないだろうな、大人になっても時間がかかるだろうなと思うことは、まだまだあるんです。
重松 ここにある苦さって、人の悪意とか、嫌悪とか、憎悪とか、そういうのが生んだ苦さじゃなくて、よかれと思ってしたんだけれども、幼いからうまくできなかったとか、すごく好きな心とか、善意とかがベースにある苦みだから、何か胸にぐっとくるのよ。
 少なくとも、僕はこの一冊を読んで少女時代の華恵さんがいっぱい人を愛して、いっぱい人に愛されてきたよね、という感じがすごくするのね。

居場所のなさと本の世界

重松 世界と言ったら大きすぎるし、環境と言ったら小さすぎるんだけど、自分を取り巻くものが、アメリカから日本、アメリカの中でもニューヨークと田舎というように動いてきたじゃない。そのときどきに、居場所のなさみたいなものを感じることも多かったんじゃないかと思うんだ。
華恵 はい。アメリカにいたころの自分は、居場所がないというのは、まずなかったんですが、日本に来たばかりのときは「外人だあ」と指さされたりして、居場所がないと思っていました。でも、そういうときでも本があれば……。
重松 そう! 本にいくんだよ。
華恵 そうですね。本が友達になるとか。その本の主人公が自分に近いものがあるのを感じたり、自分よりももっとたいへんな思いをしていたり、逆にすごくおもしろい性格だったり。周りの世界との関係でちょっと孤独に感じると、本の世界にどんどんのめり込みますね。
重松 僕自身もそうだったんです。小学校をたくさん転校してね。あまりうまくしゃべれなかったから。まず引っ越して最初にお袋が教えてくれるのが本屋さんの場所。転校していって、最初に覚えるのが図書室の場所。田舎を転校していると方言がある。でも、本は東京で読んでも岡山で読んでも同じなわけだよ。それが嬉しくてね。
 だから僕もかつて「本を読むわたし」だったのかもしれないなという気がするのね。それはみんなにあると思うんだ。居心地の悪さとか、居場所のなさという状況に、一冊の本がすっとフィットして、それによって、いまの世界を好きになれて、今の自分を好きになれたりすることっていっぱいあると思うんだよね。

整理のつかないものを大事に

重松清 重松 この本を読んだ人の声って聞いているの?
華恵 書店さんからの感想に、いろいろあたたかい言葉が書かれていました。すごく嬉しかったんですけど、その中に、「後半の方は、まだ自分の中で整理整頓されていない感じがした」という感想があって、ハッとしました。自分としては、それなりに消化して文章にしたつもりでも、まだ整理の段階という印象のものもあったのかなあって。
重松 ただね、僕は整理のつかない状況も書き残しておいてほしいんだよ。言葉を持っている人間、それを表現して活字にできる人間って、いっぱい迷って、いっぱい戸惑って、立ちすくんだりしても、そのすべてを書いていいんだよ。もちろんすべてが解決して、自分の中で収まるべき場所に全部収まって「あの頃はこうだったよね」っていうのも、もちろん味わいがあってすごくいいと思う。
 過去の話を百パーセント整理した状況で書くと、それは思い出になるんだよ。でも、十五歳の華恵さんにとっては、自分でもどこに置けばいいのかわからなくて少し途方に暮れているような、その姿も実はかけがえのないものなんだよね。
華恵 はい。
重松 どんどんどんどん大人になっていくと、とりあえずの整理の仕方っていうのを覚えていくわけ。とくに作家は、文章で整理をつける方法を覚えるんだ。読者を納得させるためにどうすればいいかを覚えていくんだ。逆に僕らが四十三歳で落ち着きのない、整理できてない悩みをそのまま書いちゃったら、「いい年こいて何をやってるんだ」と言われちゃう。でもね、それが青春の特権なんだよ。
 いまは十五歳の華恵さんの「わたし」でいいと思う。また三年後とか五年後に、この話をもう一回書いてみたら、そのときにまた収まりが変わってくるかもしれない。それを見て読者がまた成長を感じたりするわけだ。
華恵 はい。はぁーっ……。
重松 それが文章を書きのこす醍醐味だと思う。僕は、自分でも三十代で書いた小説の半分以上は書き直したいわけ。今のほうが、いろんなことが見えてると思うじゃない。それでも、未完成のままなんだけれども、十何年前の自分がせいいっぱい見たことは救いたいし、それでいいんだと思う。僕がいちばん心配なのは、整理させなきゃいけないと思って、無理やり自分の思いとはうらはらに整理しちゃうこと。せっかく悩めるんだから。悩むというのも才能なんだよ。

理屈ではなく描写から入る

重松 この本には、幼い時からずうっと編年体で追っていく楽しみがあるね。絵本を読んでいた女の子がどんなふうに育っていくのかを見る楽しみがある。大人になっていくと寂しいなという気持ちもあると同時に、「この子、こんなこと言うようになったんだ」という感慨もあってね。だって、「あの時は、わたし自身が小さかったから、本が大きく見えたのかもしれない」という描写、最高だよ。ほんとに今の華恵さんの身長でめくる本と、あの当時とでは、ぜんぜん大きさが違うわけじゃない。
華恵 そうですね。いまだにあの本だとは思えないんです。
重松 そういうふうに、理屈じゃなくって描写で入ってくるんだよね。だから、たとえばおじいちゃんのお寿司の描写、よかったな。こんなことを言ったら絶対怒られちゃうんだけど、「俺の小説じゃん、これっ! 俺が書かなきゃ、こういうの」って思ったもの。
 お寿司の上の魚がみんなはがれちゃっているところとか、お母さんが「黙々とお寿司を食べていた」「さっさと食べ始めていた」「それでも、普段よりもゆっくりと食べている。文句も言わず、黙って食べている」というところ。お母さんはこんなことを考えていたんだろうな、と書くのではない。これはもう描写なんだよ。小説なんだよね。僕がいちばん好きな書き方なんだ。人のしぐさでも、ゆっくりなのか早いのか、うつむく角度はどうなのかとか、そこでいろんなものが表現できるじゃない。

小説を書くということ

重松 いずれ、小説を書くつもりはある?
華恵 今、考えてるところです。でも書きたいなと思っているんだけど、不安な部分もあります。この本のなかでも、ある程度膨らませた部分もあるんです。そのまま書くと、事実を並べるだけだったり、坦々としすぎたり、本当に言いたいことが伝わらなかったり、内容に深みが出なかったり、前後のつながりもなくなってしまったりする。それで、別の場所、別の状況で体験したことでも、描写として使った部分はあります。
重松 僕らもそうやって、自分の少年時代の話を今の少年たちに持っていったり、娘から聞いた話を自分の少年時代の小説に持っていったりしてるもの。
 小説の面白さっておそらく二つあると思うのね。一つは『ガリバー旅行記』でも『ハリー・ポッター』でもいいんだけど、読者が見たことも聞いたこともないような不思議な世界に連れていってくれるもの。現実では自分はまねができないようなヒーローのかっこよさに憧れるもの。もう一つの小説の面白さは「あっ、この気持ち、わかる!」とか「こういうこと、私もあったかもしれない」とか、そういうのを思い出させてくれるものだと思う。
 僕はこの『本を読むわたし』を読んで、本を読んでた僕自身のこともいっぱい思い出した。転校生だった僕自身のことも思い出した。もちろん「外人」とは言われなかったけれども「よそ者」とは言われたからね。そういうときに「本、読んだよな、俺」っていうのをいっぱい思い出した。だから、いろんな人のそれぞれの記憶に触れる部分っていっぱいあると思う。そういうところが、もうできあがっていると思う。だから今度、小説をやるときは、もうそのベースはあると自信を持っていい。そういうベースがあるから少々飛んだ話を書いても大丈夫、荒唐無稽にはならない。
 その面では、僕は華恵さんの作品には同い歳ぐらいの女の子にはもちろんだけれども、ちょっとした苦い思いとか後悔とか居心地の悪さを味わったことのある人みんなに必ず触れるところがあると思う。

他人を魅力的に描けること

重松 僕、すごく人間が単純だから、作家の資質を二つに分けちゃうんですよ。一つが紫式部。大ロマンを描いていく。もう一つが清少納言なんだ。あのころは小説はなかったけれども、随筆とも虚構ともつかない「枕草子」を日常生活の中で書く。華恵さんも、生活する中でいろんなものを見て、それをスケッチしながら色をつけていく。そういう小説を書いていくのかな。
華恵 小説というものを書きたいなと思ってはいます。でも、もっといろいろな経験をして、もっと書いていってから小説というものに入ってみたいと思っています。
 この本が終わってすぐというよりも、これから自分のまわりにあるものを定期的にずっと書いていって、自分で感じるものを残していくことで、その感じ方がどんどん深くなるように、もっといろんなところにアンテナを張っていけるようにしたいと思っています。そういうことを通して、だんだんにチャレンジしてみたいです。
重松 その場合の小説ってどんな? 今のこういう華恵さんの目線の延長線上にあるのかな?
華恵 話の内容は、まだ想像がつかない感じで……。ただ、書くとしたらファンタジーのようなものではなくて、今回の本のような目線だと思うんです。これで、もっといろんなものを自分の中でスクランブルしていって、それを最初に書いてみたいと思ってるんです。
重松 僕、最初に華恵さんに会ったときに申し上げたかもしれないんだけど、「小説、絶対書けるよ」と思った。『小学生日記』の時から他人をよく描けるんだよね。他人を描く、人を描くということが、すごく得意だったと思う。
『小学生日記』を一冊通して読むと、僕は「わたし」よりもお母さんとお兄さんのほうが好きだったりするわけだ。自分を魅力的に書くというのは当然なんだけど、自分と出会った人たちを魅力的に書いていくというのは、小説家としても、人間としても一つの才能かもしれないなと思う。小説って基本的には二人以上人間が必要なわけで、その面ではいつでもスタンバイができてるんだろうなと思う。もしかしたら今のこういう華恵さん的な「わたし」を取り外した「わたし」を書きたくなったら、小説ってあるかもしれない。それこそ小説では少年になってもいいわけだし、「僕」になってもいいわけだから。
華恵 はい。
重松 華恵さんも人の本を読んできて幸せな思いをしてきた。だから、いままでお世話になった本に対する深い感謝の気持ちがベースにあると思う。その上で、今度は自分が本を書く側にまわったわけだから、すごく伸びやかにやってほしい。
 もちろん読者に対する責任もあるんだけれども失敗したって愛してくれるよ。いい加減な失敗とか、タカをくくったりとか、手を抜いたりとかした失敗には、読者は厳しいと思う。自分なりに一生懸命難しいところに、一生懸命誠実に向き合っていればいいんだよ。その結果として、たとえば、整理がつかなかったり、破綻しちゃったり、構成がうまくいかなかったりしたものに関しては、その前に誠実に向き合ったというところにみんな感動するよ。俺はそういうもんだと思ってる。「一生懸命失敗するからよろしくね」でいいんだよ。「いつもいつも成功するからね」だったらね、その成功のプレッシャーで窮屈になっちゃう。それが、俺、いちばん心配だ。
華恵 はい。いつも不安になりながら書いていたので、重松さんのお言葉を伺って、とても励みになりました。これからも、書くことに真っ直ぐ向き合っていきたいと思います。ありがとうございました。

(しげまつ・きよし 作家)
(はなえ 作家)

華恵 重松清
撮影:鈴木高宇