浪速のスーパーティーチャー守本の授業実践例

第三章 俳句

俳句について

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② 俳句の約束――感動の中心を詠む

 詩は物事の本質に切り込んで人間や人生の本質を表現します。その具体は読み手が補うわけです。そこに詩の面白さと難しさがあるのですが、俳句はそれをより極端にしたものといえます。俳句は感動の中心しか表現しないというか、表現し得ないのです。読み手は共通理解の「季語」や「切れ字」、その句が詠まれた「場」の理解を通してその句を読み解く必要があるのです。そういう意味でも俳句における約束が重要になってきます。次にその主な約束を記します。

a その場の感動を詠む。

 「その場の感動」とは、発句の伝統を踏まえた、挨拶・詠嘆・ユーモア・即興・発見に根ざした感動のことです。すべての俳句には「感動」があるのです。子規の「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」という句には、奈良という地への挨拶もあれば、おあつらえむきに鐘がなったという発見や詠嘆、また、そこはかとないユーモアも漂っていますし、即興性も感じられます。奈良を訪問した子規の「今日」の感動が読み取れますが、その発見やユーモアや喜びの濃淡については、鑑賞者それぞれに任せられているのが、また俳句らしいところです。

b 時節に応じた季語を用いる。

 これも発句に基づきますが、「季語」という共通理解なしでは、俳句の世界はなかなか完結できません。座の挨拶や雰囲気をつかむという意味でも、季節を詠むということは座の文芸として大事なことはいうまでもありませんが、季語の持つ働き自体にも着目する必要があります。俳句が表現する感動や発見には、共通理解に基づく季語が基礎としてあるからです。

初空の雲静かなり東山   高浜虚子

 元日の空の、昨日までとはうって変わった厳かとも静謐とも思える雰囲気を写し取ったものです。「初空」という美しい季語がとても効果的です。「初空」(元日の空)の共通理解がこの句の成立に不可欠であることは言うまでもありません。

 同じく虚子の句です。

去年今年(こぞことし)貫く棒の如きもの   高浜虚子

 新年のラジオ放送のために作られた句ですが、この句は先ほどの「初空」の句とは全く対照的な趣です。しかし、この句もまた「初空」に見られるような「新年」「正月」に対する共通理解がベースになっています。つまり、人事や情感は、大自然の流転に較べると些事に過ぎないというという断じ方には、その前提に「心改まるという新年」という観点が必要ということなのです。それを踏まえるからこそ、この句は新たなる発見や驚きがある句となるのです。

 しかし、ただ感動や驚きを句にすればいいというものではありません。この共通理解を踏まえて、自分なりの発見や驚きや感動を表現する必要があるのです。「月並俳句」というのは、まさに共通理解や前提を、さも発見したように驚いてみせて、実は何の発見も驚きもない句のことを指すのです。

c 感動はひとつ――俳句のヒミツ

 和歌では「事おほく添へくさりてやと見ゆるがいとわろきなり(事柄を多く詠んで、鎖のように続いて見えるのは悪い)。」(藤原公任『新撰髄脳』)の例を挙げるまでもなく、詠む感動はひとつに絞られています。気づきや詠嘆の「けり」を一首で二度用いることが禁じられているのは、そこに理由があります。

 俳句でも事情は同じです。むしろ俳句は、そのひとつの感動を強調しさえします。「切れ字」の役割がそうです。「何に感動したのか」ということが「切れ字」や「句切れ」ではっきり示されているのです。もし「切れ字」が二つある句などがあれば、読み手は作者の感動のありかに迷わされてしまいます。というより、作者の感動が散漫であるということになるのです。五・七・五という詩形は、それを要求するのです。基本的には感動はひとつ。つまり、「切れ字」もひとつです。

 また、俳句は感動を表すことが中心ですので、「説明」を嫌う傾向があります。確かに感動を説明するのは野暮ですし、感動が説明や理屈で限定されてもきます。説明のない感動こそが俳句の面白さであり、そして難しさでもあります。後述する「降る雪や明治は遠くなりにけり」という草田男の句では、「や」「けり」という二つの「切れ字」を用いて原則から外れています。取り合わせの句(二物配合)に多いのですが、例えば、「降る雪に明治は遠くなりにけり」と二者を並べれば説明的になります。それを避けるために、あえて「切れ字」を使い、二者を切り離し、説明ではなく感動によって並べているのです。このような場合は「切れ字」二つは許されるのです。それほど俳句は説明を嫌うということでしょう。

 このように俳句には約束事が多いのですが、逆に考えれば、約束さえ守れば比較的自由に句の鑑賞も許されるということも言えるのです。授業では一つの俳句に「脇句」を付けることを試みることがあります。発句の季節や感動をどう受け止めて展開するかということなのですが、鑑賞の基本や約束さえ押さえれば、そこでは作者の意図を越えた世界が自由に展開されてきます。俳句は感動の中心しか描かれていませんから、そういうことが可能なのですね。

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