万葉樵話――万葉こぼれ話

第一回 新元号「令和」と『万葉集』

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「梅花の歌三十二首」をめぐる考察

 新元号「令和」が、『万葉集』に収められた「ばいくわの歌三十二首」(巻五・八一五~八四六)の序を典拠としていることは、政府の発表においても、すでに明らかにされている。その序と現代語訳とを、私の『万葉集全解 2』(筑摩書房)から引用する。

 天平二年正月十三日、そちらういへあつまりて、えんくわいぶ。時に、しよしゆんれいげつ、気く風やはらぐ。梅はきやうぜんひらき、らんはいかうかをらす。しかのみにあらず、あけぼのみねに雲を移し、松はうすものを掛けてきぬがさかたぶけ、ゆふへくきに霧結び、鳥はこめのきぬとざされて林にまとふ。庭にしんてふ舞ひ、空にがん帰る。ここに天をきぬがさにし、地をしきゐにし、ひざちかづさかづきを飛ばす。ことを一室のうちに忘れ、ころものくびえんの外に開く。たんぜんとしてみづかほしきままにし、くわいぜんとしてみづかる。もしかんゑんにあらずは、何をもちてかこころべむ。詩にらくばいへんしるす。こんそれ何そことならむ。よろしくゑんばいして、いささかたんえいを成すべし。
〈口語訳〉
 天平二(七三〇)年正月十三日、帥老大伴おおともの旅人たびとの邸宅に集まって宴会を開いた。折しも初春のき月、気は麗しく風はやわらかである。梅は鏡の前の白粉おしろいのごとくに花開き、蘭は帯の飾り玉の匂い袋のように薫っている。そればかりか、明け方の嶺には雲が動き、松は雲の薄絹を掛けたようにきぬがさ(貴人の背後から差し掛ける絹張りの大傘。松の形容)を傾け、夕べの山洞には霧が立ちこめ、鳥はちぢみの絹(ちりめん。霧を喩える)に閉ざされたように林に迷い鳴いている。庭には今春生まれた蝶が舞い、空には昨秋来た雁が帰って行く。ここに天をきぬがさとし、地を敷物として、互いに膝を近づけて酒杯を交わしあう。一堂に会する者は言葉を忘れるほどにうち解けあい、雲霞の彼方に向かって心を解き開く。淡々と心の赴くままに振る舞い、快い状態でそれぞれが満ち足りている。文筆でなければ、何によってこの思いを述べよう。漢詩には多く落梅の篇がある。昔と今とどうして異なろう。よろしく庭の梅を詠んで、いささかに短歌を作ろうではないか。

 この序の作者は、異論もあるが、大宰だざいのそち(大宰府の長官)大伴おおともの旅人たびと(六六五~七三一)であったと見られる。天平二(七三〇)年正月、帥邸の庭園に梅が花開いた。そこで、旅人は、大宰府の官人や、管下の諸国(九州全土と対馬つしま)の国司たち三十余人を集めて盛大なを催し、出席者それぞれに歌を詠ませた。それが「梅花の歌三十二首」である。

 そこで、元号「令和」だが、右の序文の「しよしゆんれいげつ、気く風やはらぐ」から文字が選ばれた。めでたい初春の、のどかでゆったりとした情景の描写であり、典拠としてはまことにふさわしい。これまでの元号は、基本的に中国の古典を出典としていたから、和書である『万葉集』から選ばれたことは、なるほど新たな歴史を刻む一つの事件といえる。

 もっとも、その直後からさまざまな指摘がなされているように、この序そのものは、中国の書家おう(三〇七?~六五?)の「らんていのじよ」にならったものであり、典拠となった箇所もその一節が、さらにはちようこう(張平子、七八~一三九)「でんの」(『文選』所収)の一節が踏まえられている。とはいえ、日本上代の漢文作品は、多かれ少なかれ中国文学の圧倒的な影響下にあったから、どこを選んでも中国文学に行き着くのはやむを得ないことともいえる。それ以上に、元号を立てることそれ自体が中国の制度の継受だから、それを無視して元号の問題を議論することもまたできないに違いない。

 もともと、元号を立てることは、国家の正史を編纂することとともに、中国皇帝の権能に属する行為とされていた。中国の支配下にある周囲の国々は、中国の元号を使用することが求められた。いわゆる大化の改新(いつの変、六四五)の後、日本が「大化」(六四五~五〇)の年号を独自に制定し、『日本書紀』という国家の正史を編纂したことは、日本もまた中国に匹敵しうる国家(帝国)であることを、対外的に示そうとする意図があったからに違いない。朝鮮半島に対するのとは異なり、中国皇帝がこれにあえて干渉しなかったのは、日本が海を隔てた島国であったためだろう。ならば、日本の元号は、日本独自のものと見られなくもない。

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