――小澤征良さんはどのような子ども時代、高校生時代を送られたのですか。
英語と日本語の間で
わたしはアメリカで生まれて小学校1年生までアメリカで育ったんですね。小学校1年生のときに、父(指揮者の小澤征爾氏)だけアメリカに残って、母と弟とわたしは日本に帰ることになったんです。
当時のわたしの日本語は家族の間だけで使う赤ちゃんのような言葉で、英語もアメリカの子どもに比べるとおぼつかない、という状態だったんですね。それでうちの両親が、英語はあとから勉強すれば比較的身に付くけれど日本語は身につけるのが難しい、それに日本人なので、日本語を、外国語ではなく母国語として会得させたい、と考えて、子どもたちを日本で生活させることにしたんです。たぶんそれは両親にとっての「分かれ道」だったんでしょうね。その決断に、今はとても感謝しています。
でも日本に帰ってきた直後は、子どもなりに苦労があったなあって、今振り返ると思うんですよね。言葉はたどたどしいし、着ているものもアメリカで買ったものだし、すこし髪が茶色がかっていたので、よく「ガイジン、ガイジン。」とからかわれて。それがなにか、自分が受け入れられていないような感じがして、ショックだった。
ところが中学、高校と進み、だんだん日本語ができるようになると、今度は英語ができなくなってきたんですね。聞くとなんとなく意味は分かるんだけど、話せないんですよ。小学校時代に英語のせいで大変な思いをしたのに、忘れてしまうとなると、逆になにか腑に落ちないような気がして。それで高校生のときに両親に頼んで、アメリカン・スクールの先生に個人授業をしてもらうことにしたんです。
――教科書に採録した随想「自分の道」で、ロバート・フロストの詩を教えてくれた先生ですね。どんな先生でしたか。
引き出してくれる先生
すばらしい先生でした。今はもう、どこで何をしているのかぜんぜん分からないんですが――どこかを放浪しているのかもしれませんね(笑)。この先生がたくさんの詩や短編小説を教えてくれました。なかでも、一番強烈に印象に残ったのが、ロバート・フロストの「行かなかった道」だったんですね。
この先生が良かったのは、始めから答えを押し付けるのではなくて、「この詩を読んで、君はどう思う?」と必ずわたしの考えに耳を傾けてくれたことです。「こういうことが分からない」ということでも「それは僕は気づかなかった。では、どういうことなのか、一緒に考えてみよう。」と、いつも対等な立場で語り合いながら、わたしの内面を引き出してくれたんですね。
この先生の授業は、すごく面白くて――それまでは詩にもほとんど興味がなかったんですが、この詩を先生に教わったとき、詩というものは、これだけの言葉でこんなにも広く大きな世界を含むことができるものなのか、と、すごく衝撃的でした。
――初めてこの詩に触れたころと、その後で、この詩に対する感じ方は変わりましたか。
言葉は「種」
変わったといえば変わったし、変わっていないといえば変わっていないかもしれない。初めて触れたのは16歳のときですが、その当時はとにかく言葉や詩の「可能性」に気づいたということが衝撃でしたね。
先生とディスカッションする中で、16歳の自分はここまでしか見えていなかった。そして、40歳くらいだった先生は、もっとたくさんのことをこの詩から読み取っている。でも、ひょっとしたらそれ以上に、もっともっとたくさんのことを、この詩は秘めているのかもしれない――最初は、そういう言葉の「可能性」を知ったことの衝撃が大きかったんですね。衝撃が大きかったからこそ、この詩の情景とか含んでいる世界観とかがずっと自分の中に残ったんだと思います。
そうして残った言葉が「血となり、肉となり」っていうか――自分の一部になったような感じですね。その後、さまざまな友人たちとの出会いの中で、ふと「あ、この感覚ってなんだったっけな、知ってるな」と感じることがあった。それが、この詩で得た感覚と重なったんだと思います。
この詩に限らず、言葉って「種」みたいだな、と思います。「種」が出会いを通して芽を出して、成長して、深まっていくという感じがします。 |