ちくまの教科書 > 国語通信 > 特集 > 辻信一さんに聞く(1/5)
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――教科書に掲載した「テイク・タイム」には、ジョージア・オキーフの「だれも花を見ようとしない。花は小さいし、見るっていうことには時間がかかるから。そう、友だちをつくるのに時間がかかるように。」という言葉を引用されています。これはとても印象深い言葉ですね。

「ハンドレッド・フラワーズ」

 実は、ここで引用してある言葉には続きがあるんですよ。

 「わたしは花を大きく描きたいの。そうしたら、ビックリしてじっと見入ってくれるかもしれないでしょ。忙しいニューヨーカーにさえ、時間をかけて花を見ることを教えてあげたいのよ。」

 「だれも花を見ようとしない……」というところだけ見るとちょっと悲観的だけど、そのあとを見るとオキーフは決してあきらめているわけじゃないことがわかる。ぼくたちはだれでもふとした加減で、ふだん見過ごしているものに、じっと見入ってしまうことがある。へーえ、花の中ってすごいな、ひとつの宇宙だ、なんてね。我を忘れて見入ってしまうという、そんなときがだれにでもある。オキーフはそれに賭けたんだと思います。

「生木に花が咲くを驚くべし」

 花に関していうと、こんな言葉があるんですよ。

  「枯れ木に花が咲くを驚くよりも、生木に花が咲くを驚くべし。」

 江戸時代の哲学者で、今の大分県にいた三浦梅園という人の言葉がもとになっているんです。枯れ木に花が咲くと、みんな「奇跡だ!」といって騒ぐ。でも、本当に驚くべきなのは、生きている木に毎年季節が来れば花が咲き、今年もまた咲いた、ということのほうなのではないか。それこそが奇跡なのではないかっていうんです。

 ぼくたちは、「地震が起きた」といっては大騒ぎする。でも、今このときに地震が起きていない、そして今こうして大切な人たちと食卓を囲んでいる。そのことこそが奇跡なのではないか。そんな時間を当たり前のこととしてぼくたちは何気なく過ごしてしまっているわけです。道端に小さな美しい花が咲いている。そんな奇跡みたいなことを、ぼくたちはいつも気づかずに通り過ぎていて、花が咲かなくなったときに大騒ぎする。病気になると大騒ぎするけれど、病気じゃないことをすごいなーってなかなか思えない。

 でも、生きるっていうのは、そういう一見なんでもない「奇跡」の積み重ねでしょ。

――ジョージア・オキーフ以外に好きな画家はいますか。

枯れてゆく花

 好きな画家というと、まずぼくの母親、臣華(みか)です。母はどんどん「展開」しているように思う。ふつうぼくらは、若いときに活躍して、年をとったらどんどんしぼんでいく、というふうにアーティストの一生を考えがちなんだけど、本当は人生というのは歳とともに次から次へと「展開」するものなんだな、ということを、母親の絵を見ていつも感じるんです。

 最近の母の絵はどんどん抽象的になってきているんですが、母が長い間とくに執拗に描いたのが、生き生きと咲き誇る花よりも、枯れた花だった。枯れてゆく花なんて、だれも描かないでしょ。生きている花が美しい、とみんなは思う。でも枯れてゆく花っていうのはすごいんだ、っていうことを、ぼくは母親に初めて教えられた。

 「枯れる」っていうのは、意外と時間がかかるんですよ。いわばひとつひとつの花は、「枯れる」というプロセスを「生きる」わけです。

 そう考えると、人生というのも見方が変わってくる。ぼくたちはふつう、人生はピークを過ぎたらあとは衰えるばかり、と思いがちなんだけれど、じつはそのプロセスのそれぞれの時期に美しさがあり、展開がある。母親の絵を通してそんなことを学んだ、という気がします。

 ジョージア・オキーフは「だれも花を見ようとしない」と言ったけれど、たとえ見たとしても、本当に短い間しか注目しない。しかも、花屋の花や花束には注目しても、野の花、足元の花、小さな花の前で立ち止まらない。それから、みんなは花の季節っていうのは本当に短いものだと感じているかもしれないけれど、植物たちはいろいろな季節を生きていて、それぞれに、その時々の姿があるわけじゃないですか。葉っぱだって、青い葉が、やがて枯葉として散っていく、さらに散った後も長いときを生きるわけですよね。

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