鳥取県鳥取市……人口20万人弱、全国の県庁所在地のなかで、山口市に次いで人口の少ない市だという。同じ鳥取でも、おとなり島根に隣接する境港は水木しげるキャラで全国的な人気だし、島根県側に入れば水の都・松江に宍道湖、出雲大社と観光名所にことかかない。しかし鳥取市の観光名所といえば……砂丘。市内を歩いてもシャッター商店街ばかりが目立ち、寂寥感が漂っている。
そんな鳥取市街中心部の通りに面して、一軒だけ極端に異彩を放つ店がある。『ラスタ』──その名のとおりレゲエやエスニック・テイストの洋品雑貨を扱って今年で18年目という老舗店だ。そして今年78歳になる店主・水原和美さんは、鳥取のアンダーグラウンド・シーンに君臨するラスタファリ・クイーンでもある。
水原さんのことは、長年の友人である娘さんからよく聞いていた──「うちのお母さんは50歳ぐらい年下の男の子たちを従えて、海外旅行には行っちゃうし、店も手伝わせるし、運転もさせるし、すごいの」「お母さんと話したい子たちが自然と店に集まってきて、でも初心者は立ってなくちゃいけなくて、ベテランになれないと椅子に座れないから、うちの店でお母さんの横に座るのが、鳥取のやんちゃな子たちの憧れなの」等々……。
もともとご主人の実家が経営していた薬局を畳んで、水原和美さんが『ラスタ』を開業したのは1994(平成6)年のことだった。
「ラスタ」っていう店にしたのは、半分はレゲエ系を扱うからだけど、ラスタにはヒンドゥー語で「道」という意味もあって、それならアジア系も扱えるかなと思ったのんですよ。
わたしはずっと高級婦人服をオーダーで仕立てる仕事をしてたんで、もともとファッションの原点というのがすごく気になってたんです。それで東南アジアから中近東、アフリカ、中南米とか、洋服の原点を探しにずーっと旅をしてきて。ゆくゆくはそれを本にまとめたいと思ってたんだけど、途中でダンナが病気で倒れちゃって。
それまでダンナは薬局、わたしは仕立てをやってたんだけど、それも無理になったので、『ラスタ』を始めたんですよ。エスニックの店だから、最初は近所のオバサンしか来ないと思ってたんだけど、いざフタを開けてみたら若い子ばっかり来るようになって。それまでこんな店は鳥取にひとつもなかったしね。ま、似たようなほかの店も、みんな「うちが最初だ」って言ってるけど(笑)。
ジャマイカ、メキシコ、ペルー、タイ、ネパール、インド、ラオス、ケニア、タンザニア、エチオピア……うちにはほんと、いろんな国の商品があるけど、土産屋で売ってるような安物はありません。仕入れは、まず現地に行く。それで、いい取引先と出合うことが大事。長くお付き合いをしていくわけ。たとえばアフリカから(商品を積んだ)船が大阪に着いたって聞くでしょ。そしたらすぐ南港までクルマ飛ばして買いつけに行って、持ってきたものを全部買い取っちゃうとか。
だからお客さんもいろんなところから来ますよ。関西から来るひとや、観光で来て通りがかりに見つけてくれるひとも多いし。ほんと言うとね、わたしは県外のひとに来てほしいの。県外のひとは質を見てくれるけど、鳥取のひとは「なんでこんな高いだ?」とか言うから、嫌いで。値段だけで、質を見ないのね。こっちはずっと1着数十万円の高級オーダー服の世界にいたから、服は質で見てくれないと。

そんな強気の姿勢を貫く水原さんだが、開店当初は接客にも気苦労が絶えなかったという。
わたし、もともとやりたくて始めた店じゃないし、接客っていうのが嫌いだし、鳥取の、知らないひとが入ってくるのも大っ嫌いだったんで、最初の1年は「どうかだれも来ませんように」って、毎日祈ってましたね(笑)。
だからいまでもね、気に入らない客だと追い出しちゃう。ちゃんと会話できない子、こっちがしゃべってるのに聞いてない子、そういうのはダメ。出入り禁止にしますから。そういう子はまた来ても、戸が開いた瞬間から「いらっしゃい」じゃなくて、「なに買いに来た!」って怒鳴っちゃうし。ま、たま〜に出禁から復活する子もいるけど(笑)。
こういう店でしょ、田舎だし。一時、ここで大麻を売ってるんじゃないかって噂が立ったことあってな。それであるとき刑事が3人で、突然入ってきて。ちょっと調べさせてくださいって。
それでこっちは最初、「はあ〜〜? わかんない〜〜」ってお婆さんのふりしてトボけてて。もちろん何にも出なかったから、あっちが「どうも」って帰ろうとした瞬間に「ちょっと待ったぁ〜!」って(笑)。「あんたら、勝手によその店に入ってきて、いろいろ引っかき回して、なにも買わずに出ていくんか」って問い詰めたら、「お金持ってきてないんです」とか言うから、「3人合わせりゃ買えるだろう」って、お香買わせて帰したわよ。
真冬の夜に、ひとりで店にいたときに、流れのヤクザが2人入ってきたこともあったね。なんか選んでたと思ったら「なんぼじゃ、負からんかい!」とか言われたんで、とっさに「倍だしゃぬくなるが!」(倍のお金を出せば、もっとあったかくなるよ)って言い返したら、「どこの姐さんですか?」って聞かれて、「そのへんで聞いてみな」って怒鳴ったら帰っちゃった。だって、なんでも思ったことは言うべきでしょ。仮にそれで刺されて殺されても、悪いのは相手なんだから、いつ死んでもいいんじゃないの、っていう気持ちだし。
前はここら、ヤンキーもすごく多かったんだけど、あいつらひとりだと弱虫なのに、3人ぐらいで店に来て、商品をぐちゃぐちゃにとっちらかすのよ。それで、まずドアにカギかけて、「バカモン、なにやってんの!」って怒ったら、「なんかオバチャンが怒りよるで」とかコソコソ言ってるんで、「きれいに片づけい!」って片づけさせて、帰ろうとするから「なんも買って帰らんのか!」ってさらに怒って、Tシャツ1枚買わせて、「じゃあ帰れ」ってカギ開けてやったりね(笑)。
そうやって水原さんに怒られたことがきっかけで、実の母親のように水原さんを慕って通いつめるようになった若い子たちが、鳥取にはずいぶんいる。それも、おもに男の子たちが。説教されて、ときには鉄拳制裁を受けながら、毎日店に顔を出して、少しずつ店を手伝うようになった子もいるし、水原さんの選ぶ洋服のセンスが大好きになって、バイトに励んでは少しずつ買いためているうちに、すっかり着こなしが「ラスタふう」になってしまった子は、もっとたくさんいる。

20代で『ラスタ』に「感染」して、通いつめていたのが、そのうち結婚して、子供ができたり仕事が忙しくなると、だんだん来れなくなって『ラスタ』を「卒業」。そうして次の世代が育っていく。卒業生だってほんとは店に通いたいのだが、「入り浸っちゃうので奥さんがヤキモチ焼くから来れないの」。着るものもほしくてしょうがないけれど、「これは『ラスタ』のだって奥さんにわかって怒られちゃうから、着れないのね(笑)」。
これほどまでのカリスマと、夜回り先生のような情熱と、「同年代の友達なんてひとりもいないから!」と言い切る若さを合わせ持つショップ・オーナーが、原宿でも代官山でもなく、鳥取のシャッター商店街のはじっこにいるという、その素晴らしさ。その唯一無二のキャラクターは、どうやって生まれ、育まれてきたのだろう。
水原和美さんは1934(昭和9)年、京都に生まれた。
鳥取のひとはみんな、買い物っていうと関西に行っちゃう。こっちでも売ってるのに。だけど「東京出身」っていうとびっくりされるから、いつもは「東京生まれ」って言ってるのね。でもほんとは京都です(笑)。
うちはおじいさんが国鉄で機関車の運転手してて、お父さんはサラリーマンだったんだけど、おばあちゃんの家系が裕福だったらしくて。2歳のころからオーダーで革靴を作ってもらってて、スーツのお父さんと着物のお母さんに手を引かれて歩くでしょ、そうするとキュッキュッて音がするのがうれしかった記憶があるね。
うちはしつけもぜんぜん厳しくなくて。カトリック系の幼稚園に行ったんだけど、当時からやんちゃな子だったみたいで……(笑)。年少組のときかな、お漏らしてスカートを汚すと、ブルマーを穿かせられるの、幼稚園のマーク入りの。わたしはそれが穿いてみたくて、わざとお漏らしして、先生に洗ってもらったパンティをるんるん振り回しながら、歩いて帰ったりしてたから。
それで中学校に上がるころに、父親の関係で京都から鳥取に来たの。もちろん、イヤでイヤでしょうがなかったですよ。もう、虫が多くて! 友達は別に、いなくなっても平気なの、またすぐできるから。わたしね、いつも知らん顔しても、うしろからみんな、ぞろぞろついてくるの。生まれてからいままで、寂しいと思ったことはいちどもないからねえ。
それで中学から地元の高校に入ったんだけど、1年が終わらないうちに中退しちゃいました。それは、中学のころからだったんだけど、学校ではスポーツばっかりしてて、帰りに図書館に寄って、夜10時に閉まるまで勉強して、それから家に帰るっていう毎日だったんですよ。
うちの家系には教員が多くて、でも教師って視野が狭いでしょ、それが大っ嫌いで! それで、このままだと大学行って教師にさせられちゃうと思って。わたしは自由人でいたいんだから、自分で自分の勉強しようと。それで、図書館に通ってたことは親にも言わなかったの。
で、10時半ごろに帰ると「こんな時間までなにしてたの?」って聞かれるでしょ。でも勉強してたっていうと教員にさせられちゃうと思って、勉強だなんて言わずにいたの。そしたらお母さんが「あんた不良じゃないの」って言うから、「そうだよ」って言い返したら、「それもいいんじゃない」って(笑)。
だってわたしは小学校ごろから「自由人でいたい」って、ず〜っと思ってきたんだから。格好だって派手なのが大好き、「わたしを見なさい!」みたいな。ひとが着てないものを着たかったのね。母親の着物をほどいて、自分で勝手に洋服にしちゃったり。習ってもないのに、はたから見ればおかしかったかもしれないけれど、周りの目なんてまったく気にならなかったから。その血を引いたんでしょう、娘も小学校6年生のときに、「お母さん、オトナになったら東京に行ってヒッピーになるけど、いい?」って言うから、「いいよ」って言ってやったし。
当時、鳥取の大丸でデパートガールを募集してたんですよ。「ステッキガール」って言葉どおり、成績とかじゃなくて、かわいい子だけを採用してたのね。それで「応募しようよ」って学校の友達を誘って4、5人で学校を辞めちゃったのね。退学届けに勝手に父親の名前書いて、ハンコ押して出しちゃって。そのときだけは怒られたけど(笑)。でも、わたしはひとに使われるのが大嫌いだったから、自分だけは(大丸に)行かなかったの、みんなを誘ったのにね(笑)。
16歳でいきなり「自由人」になった水原さん。母親に「不良」と言われたことが頭に残っていて、「じゃあ不良になってやろうじゃないか」と、なにが不良かわからないまま、不良の道をまっしぐらに進みはじめた。
そのころは友達の家に泊まって帰らなければ、それが不良だって思ってたから(笑)。そこで昼間、なんにもわからないまま、好き勝手に洋服を作ってたんですよ、自分が着るために。それを見てた母親が、服飾学院を紹介してもらって、入ることにしたんです。
わたしはずーっとお洒落に興味があったし、映画も洋画しか見なかったの。それもストーリーには興味なくて、女優さんのきれいな洋服だけをじーっと見て、あとは映画音楽を聴くだけ。どういうふうに作ったら、ああいうふうにかっこよく見えるんだろうかとか、どういうふうにしたらあんなふうに胸が大きく見えるのかとか、そんなことばかり考えながらね。
ひとのために服を作ろうなんて気は、まったくなかったですよ。みんなとちがうものを作って、着たかっただけ。たとえば先生が「みんなでワンピースを作りましょう」って言うでしょ。そしたらわたしは「先生、チャイナ服を作りたい」と。難しくてできませんって先生が言うと、じゃあ一緒に勉強して作ろうって言って。
そうやって作った洋服を着て遊んでいるうちに、友達から「それどこで買ったの? それいいから、私にも作って」って、学校に行ってる途中から仕事が入ってくるようになったのね。客がどんどん増えてきて、やだなーと思ったんだけど、しょうがないから作ってあげるでしょ。それで、ひとが喜ぶ顔を見だしたら、自分のことはほっといて、ひとが喜ぶことをしてあげようかって思いはじめたんですよ。



不良の自由人だったはずが、思わぬ展開で在学中から多忙な毎日になってしまった水原さん。仕事がどんどん舞い込むようになって、ハタチになるころには5人もひとを使っていたという。
ずっとスポーツやってたから男友達はいくらでもいたんだけど、恋愛感情にはぜんぜんならなかったのね。優しくって、スタイルがよくって、頭が切れる、そういうのじゃないと好きになれなくて。ひとつでも欠けるとイヤ! ってなっちゃってたから(笑)。仕事も忙しかったし。
だから当時は結婚なんて、考えたこともなかったんだけど、中学時代からいっしょに遊んでいた男友達のひとりが、まあ、あのひとはわたしのストーカーだったんでしょうねえ(笑)、毎晩、わたしが帰るのを電柱の陰とかでずーっと、1時間でも2時間でも待ってて、「お帰り〜」って声かけるようになったんですよ!
そのひとの家は薬局なんだけど元・武士の出とかで。こっちはよそから来た人間だからダメだって、家で言われてたらしいの。それでわたしから遠ざけようって、東京の日大に進学させて、そこでバスケットボールやってたんだけど、毎日3通手紙が来るのよ。4年間ずっと! 全部、読まずにボール箱にポイしてたけど(笑)。だって、どうせそんなにちがうこと書けるわけないでしょ、毎日。そしたら大学終わって鳥取に帰ってきてしばらくして、突然、そのひとが荷物持って、うちに来たのよ、駆け落ちしようって。
えーっ、そんなのイヤだって思って。だって恋愛感情ないから、こっちは。それで、あちらの実家に「おたくの息子が荷物を持って、駆け落ちしようってうちに来たけど、迷惑だから、引き取りに来てくれ」って言いに行ったら、あちらの親もびっくりしてね、「それじゃあ頼むから結婚してくれ」って。それで、まぁしゃあない、それなら結婚しましょうかと(笑)。
「しゃあないから」結婚したのが、水原和美さん23歳のとき。しかしほんとうの波瀾万丈はその先に待っていた。
娘が生まれて3歳になる直前ごろだったんだけど、あっちのおじいさんから急に「気に入らんから出てってくれ」って言われたんですよ。謝っても許してくれなくて。それで娘を連れて実家に帰ったら、またダンナがついてきちゃって(笑)。しょうがないから家を借りて、ダンナはあちらの薬局を手伝って、こっちはオーダーの仕立てで稼ぐようになりました。でも籍を抜くまでいかなかったから、あちらのおじいさん・おばあさんが倒れたときは、下の世話からなにからぜんぶ面倒を見ましたよ。自分のつとめだと思ったからね。それでわたしを追い出した舅さんも、亡くなる寸前に虫の息で「悪かった」って謝ってくれて。
ご主人は薬局を営みながら店で寝泊まり、水原さんは子供ふたりを育てながら自宅の2階を仕事場にして仕立て業、さらにあちらのご両親の介護。変則的な別居生活のまま「毎日3時間しか寝られない」苛酷な日々が続いたが、ご両親が亡くなってひと段落と思いきや、今度はご主人のほうが病気で倒れてしまう。
ダンナが病気になっちゃって、手術したら寝たきりになっちゃったんですよ。自分ではなんにもできなくなっちゃって。それで医者から、もう復帰不可能と宣告されたから、「あっそう」ってさっそく薬屋を片づけて、たった1カ月で店を立ち上げましたね。
重なる不運・不幸を乗り越えて、1994年に『ラスタ』開店。しかしそこに、さらに大きな落とし穴が待っていた。
いざ店をオープンしてみたら、主人が友達の借金の肩代わりをしてるのがわかって。数えてみたら約1億円! とんでもない借金が発覚したのよ。薬局はすごくうまくいってたんで、遊びのカネがほしい友達のかわりに、あちこちの銀行から借りてあげてたのね。それがダンナが倒れてみたら、みんな知らん顔で。
そのときは『ラスタ』の立ち上げの借金もあったし、2日間ぐらいは死ぬ人間の気持ちがしみじみわかったねえ……。でも、そんなふうにバックレるやつらには、「いつかはバチが当たる!」って思うの。どうせ、言っても返せないような人間だから。それで病院で寝てるダンナに「あんた、わたしは7年間で借金を返してやる、だから7年間、呼吸してな」って言ってやったね。なんで7だったのかは、いまでもわからないんだけど(笑)。
けっきょくね、なにがあっても自分に対しての挑戦だと思えば、ひとは強くなれるのよ。他人に対してじゃなくて。まわりのせいにしたって、かえってくるのは自分だから。それがいちばん大切だって思うの。だからそのときが、わたしのチカラ試しのときだと思ったのね。『ラスタ』の売り上げなんてたいしてないから、店から夜に帰ってからオーダー仕立ての仕事をして、必死に働いて。「このやろー、こんちくしょう!」って。それでちょうど7年で借金をきれいに返したんですよ。そしたらそのとたんに、ダンナの息が止まったの!
あまりにもドラマチックな半生を経て、いま水原和美さんは若者たちに囲まれながら平穏……じゃなくて、あいかわらず怒ったり笑ったりの毎日を送っている。子供のころから家にいるのがきらい、いつもどっかにでかけてないと気がすまないから、いまも家でゴロゴロなんてぜったいしない。「テレビなんて時間がもったいないだけ」と、あっちこっちと飛び回る生活だ。
お酒はもう飲まないけれど、野菜も魚もきらいの「肉食よ!」。「タバコがわたしの栄養だから」「ニコチンで肺を固めてるから、ガンにならないの!」と、毎日1箱半のタバコも欠かさない。5年ほど前には、警察に「よく死ななかったね」と言われるほどの交通事故に遭うが、「車同士が目の前で衝突して、片方が自分に向かってきて、飛ばされたのね。で、倒れてたら通りがかったひとが『アー・ユー・OK?』だって。派手だから外人と間違われたの!」と、それも笑い話のネタにしてしまう豪快さ。
このごろ『ラスタ』のシャッターが開くのは午前11時ごろ。でもお客さんが増えてくるのは夕方からだ。前は店の前に「なにがあったの」というぐらいずらっとクルマやバイクが並ぶこともよくあったそうで、夜は10時、11時まで開いているのがあたりまえ。いちばん遅かったときは「朝5時まで!」。そのあいだ、お客さんたちはずっと店にいて、水原「ママ」と語り合うわけだが、「買い物しないとしゃべらせん」。買い物しないでしゃべりに来るひとには、「買い物してからしゃべりな」と説教。そうでなければ自動的に出入り禁止。
店内中央には数脚、椅子が置いてあるが、その椅子に座れるのには「暗黙の順位」があるという。まず、店内各所に立って聞いたり話す時期があり、そうして常連になるに従って、椅子が近づいていく。タバコが吸えるのも、椅子に座ったものだけ。そこまで来るにはかなりの実績が必要なので、「早くここに座れるようになりたいって、みんな憧れて通いつめるんです!」と、いま水原さんの公私にわたって寄り添う「音吉」くんも言っていた。
お店が終わったあとは、クルマで来た子たちとドライブしたりで、真っ直ぐ家になんか帰らない。「わたしから誘ったことなんてないわよ!」と言うが、子供たちはみんな水原さんがどっか行きたいのをちゃんと察して、「ドライブ行きましょか」と言葉をかける。夜だし、遊びに行けるような店もないでしょうと聞いたら、「パトカーや消防車を追いかけたりするんよ!」。ピーポーと音がすると、「どっかで火事だ、探そう!」と走り回るのが楽しいらしい。パトカーに追いかけられるんじゃなくて、追いかけるほうなのだ、このひとは。
日曜は店が休みだけれど、ほかの予定でやっぱり忙しい。男の子たちが家まで誘いに来て(来ていい子と、ダメな子がいるそう)、みんなで温泉に出かけたり、家でご飯食べたり、ちょっと飲んだり。50歳以上年の離れた、そういう取り巻きがつねに2人ぐらいはいる。
同年代のお友達はいないんですか、と聞いたら、「ひとりもいないわよ、大っ嫌いだから!」と明快なお答え。近所のゴシップだとか病気の話とか、くだらない話ばかりで聞いていられないし、近所づきあいもずーっとなし。つきあってるのは、いつも若者だけだ。
「別にこっちから若い子を誘ってるんじゃなくて、勝手についてくるんだから。ほんとはうざいんよ!」と笑うが、「わたしはこっちのが楽しいからやってるだけで、だれにどう思われたって、別にどうってことないんだけど、ほかのひとを見るとちがうでしょ、そっちにびっくりしちゃう」と、真顔で話してくれた。
水原さんは、別に若い子たちを甘やかしてるわけじゃない。はたで見ていても、むしろすごく怖いオバサンだ。「でもね」と彼女は言う──「いまの若い子って、親も怒らないでしょ。怒ってもただ、ダメです、いけません、で、なんでダメなのか意味を教えないのね。わたしはすごく怒るし、そのときはなんでそんなに怒られるのか、わからないかもしれない。でも将来、なにかにぶち当たったときに、『ああ、あのときオバチャンはこういうこと言ってたんだなあ』と思ってくれれば、それでいいの」。
今夜もまた『ラスタ』には、水原さんを「ママ」や「オバチャン」や「和美さん」と呼んで慕う若い子たちが、そろそろ集まるころだろう。ちゃんと話を聞かなかったら思いっきり怒られて、無理して商品を買おうとすれば「そんなにいっぺんに買わんでいいの!」と説教されて、洋服を並べた棚やラックのそばに閉店まで何時間でも立ちっぱなしで、それでもみんな帰らない。
いつまでたっても、ものすごくきれいだったりスタイルよかったり、ものすごくお金持ちと結婚したり、有名だったり……女の人生の「勝ち組」にもいろいろあるのだろう。でも、これだけ歳の離れた若い子たちにこれだけ慕われて、毎日ワイワイやっていて、気がついたらまた次の日になっている──これ以上の勝ち方って人生にあるのだろうかと、僕は思ってしまう。
水原和美の「ファッションの源流を訪ねる旅」写真館
水原さんは、実は長年にわたって熱心に写真に取り組んでいる。「ちょっと見てくれる……?」と案内された部屋は、プリントやアルバム、ネガファイルがいっぱい。プロ・カメラマンの仕事場みたいだった。
仕入れも兼ねて世界中を巡りながら撮影した作品を見せてもらっていると、彼女が「ただ派手なのが好きなオバサン」なんじゃなくて、人間の「装い」をしっかり見つめてきて、そのフィールドワークの結果が自分の着こなしや、店の商品構成に活かされているのだとわかってくる。ここでは膨大なコレクションの、ほんの一部をお見せしよう。



ラスタ
680-0034
鳥取市元魚町3丁目126
0857-22-4967