もっと理屈を言え!

中島隆信

「つべこべ理屈を言うな!」と怒られた経験をお持ちの方は多いだろう。英語ではセオリーと訳されるこの「理屈」という言葉は、全般的にあまりいい意味では使われない。「理屈っぽい」「理屈をこねる」「屁理屈」など、何かストレートでないひねくれた印象を与える表現が多いようだ。

 英語のセオリーには机上の空論という意味もあるが、「理屈」とは多少違うニュアンスのように思える。空論は現実妥当性のない理論のことを批判する表現だが、「理屈」には論理的思考そのものを否定する響きがあるからだ。「理屈を言うな」とは、「あれこれ考えずいわれたことをやれ」ということだろう。

 実際、「理屈を言う」ことはそんなに悪いことなのだろうか。確かに「理屈」は自分の失敗を正当化するための弁解として使われることがある。また、自分のやりたくないことを回避するための言い訳とみなされることもある。しかし、それを「言うな!」と一喝するのは望ましいとはいえないだろう。正当性を欠いた「理屈」に対しては、正しい論理で対抗すべきだからだ。

 日本で経済学の評価が低い理由は、経済学が「理屈を言う」学問と思われているからではないだろうか。世の中の出来事から一切の感情論を取り除き、人間行動の源泉となっているインセンティブ(動機付け)の糸をたぐり寄せながら真の原因を探っていくのが経済学である。世の中を善玉と悪玉に二分し、悪玉を一刀両断すれば問題は片づくと考えている人にとっては、これほど「理屈っぽい」学問はないだろう。

 たとえば、「なぜ結婚するのか?」と問われれば、「愛し合っているから」と答えるのが普通だろう。ところが、経済学では、「結婚によるコストとベネフィット(便益)を天秤にかけ、ベネフィットがコストを上回ったから」と答える。ものすごい反発が来そうである。「愛の美しさを数式で表現するなんてけしからん!」

 現代の少子化とその背景にある晩婚化は一種の経済現象といえるのではないだろうか。結婚か仕事かの二者択一を迫られたとき、「特定の男性に必要とされる人間として生きるより、社会に必要とされる人間として生きたい」という現代女性の考えはまさに合理的な選択そのものである。

 合理的な選択とは、単に金銭的価値だけを基準とするものではない。どのような高額所得者であっても生きがいを持たなければ人生は味気ないものとなる。倫理観のない単なる金銭的欲求は必ずいつか破綻する。マイクロソフトの創始者で資産家のビル・ゲイツ氏が二〇〇八年に経営の一線を退き慈善活動に専念すると宣言したのも金銭的欲求の達成だけが生きがいではないことの証拠といえるだろう。

 近年の少子化問題の深刻化を受け、行政は幼児教育の無料化など金銭的援助を柱とする対策に乗り出した。経済的インセンティブをつけたいという気持ちはわかるが、結婚や子育ての「理屈」を単に金銭的側面のみから考え、少子化対策を立案するのはあまりに貧弱な発想だろう。確かに子どもの教育費は相当な額である。しかし、子育ての費用だけが出産の足かせになっているとは考えられない。むしろ多くのカップルにとって子育てが生きがいとは考えられなくなってしまった事態を深刻に受け止めるべきである。

 安易な経済支援は、扶養家族手当と同様、子どもを持つことが世帯にとって単なる既得権益と化してしまう可能性がある。また、金銭的インセンティブの弱い高所得者層には効果がなく、低所得者層の子どもばかりが増えるというバランスを欠いた人口構成になるリスクも同時に負わなければならないだろう。

 社会問題に関してもっと広い視野から理屈をこね回す必要がある。論理的思考のできる人間が求められる時代なのである。そのためには、子どもの頃から論理的にものごとを考えることの重要性をきちんと教えていかなければならない。その際に経済学の果たすべき役割がきわめて大きいことを経済学者は今こそ声を大にしていうべきだろう。

(なかじま・たかのぶ 慶應義塾大学教授)

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