江戸開発と木曽ヒノキ

立松和平

 平城京を開発する際、琵琶湖周辺の森が乱伐されて荒廃し、地すべりなどが起こったということは歴史的な出来事である。どんな文化や文明でも、森林が支えていたのだ。森林が衰えれば、文明も衰退する。

 日本史上、新たな都市開発で最も大量の木材を必要としたのは、江戸ではないだろうか。徳川家康がまったく新しい首都構想を持って江戸に幕府を開くことにしたのは、木材供給のめどが立ったからである。

 関ヶ原合戦で石田三成の指揮する豊臣連合軍を破った家康が、まっ先に手を染めたのは、豊臣家が領有していた木曽を自分の蔵入地【くらいりち】、すなわち領土に組み入れたことである。山奥の木曽からは木曽川を流送することによって、大量のヒノキ材を名古屋まで運ぶことができる。名古屋からは海上交通を使って江戸まで搬出する。

 関八州、すなわち関東の全域を領有していた家康は、豊臣家がいまだ居城を構える大坂からも遠く、手つかずの広大な土地がある江戸に新しい都を建設することを決意する。今後の発展を考慮して壮大な開発をし、その力を諸大名に分担させれば、経済力を弱めることもできる。

 江戸は江戸湾から葦原がつづく低湿地である。康正二(一四五六)年に太田道灌が江戸城を築いたが、漁民たちの粗末な家がならぶ寒村であった。葦原は奥までつづき、潮の干満の影響を受けた。海岸から三十キロほどいくと武蔵国の中心地の川越に至り、都市といえるものはそこまでいかなければなかった。

 この湿原から水抜きをし、石垣の石を大量に運ぶために、まず運河が開削された。最初に掘られたのは、隅田川の河口から江戸城に向かう道三堀であった。また、この大工事は大量の雇用をともなっていたので、戦国時代の戦後処理でもある社会事業だった。また時代の流れは家康へと向かい、これまで大なり小なり覇権を争ってきた大名に難工事を担当させることによって、忠誠心をはかって関係を再構築することができた。

 日比谷のあたりまで入江が喰い込んでいたので、運河開削で出た大量の土砂で埋め立て、神田山などの小さな丘陵は崩された。江戸城を中心として徳川家はまわりを親藩に囲まれるようにと、二百七十あったとされる大名の江戸屋敷を割り当てる。各大名には、藩主のいる上屋敷、藩主の世子【せいし】や隠居のいる中屋敷、藩主の別邸の下屋敷が必要であった。徳川家直属の家臣の旗本と御家人もいる。俗に旗本八万旗というが、この半分はいたようだと推定される。この他に町人や職人たちも集まってくる。

 諸大名はそれぞれ用材を手当てして屋敷を建てたにせよ、旗本御家人の屋敷の用材は、幕府が面倒をみた。その用材の多くは木曽ヒノキであった。人が集まれば、橋も架けなければならない。精神文化を担う神社仏閣も必要であったろう。茫漠たる葦原が、百年後の江戸の人口として、武士団が約五十万人、町人が約五十万人で、当時とすれば人口百万人という世界的な大都市に育っていったのである。

 江戸は木造家屋が軒を連らね、一軒が燃えるとたちまち類焼した。江戸の名物は火事である。江戸は木材がいくらあっても足りない。最も大量に必要なのは江戸城の建築資材で、つづいて家康は自らの隠居所として駿府城の大改築を行った。天下人家康の居城には惜しげもなく良材が供給された。間もなく尾張藩の名古屋城本丸も竣工した。

 はじめは家康の旧領の三河、駿河、遠江などの森が伐られ、天竜川を流送された。それでは足りず、木曽ヒノキ材や飛騨ヒノキ材が主流となっていった。木曽ヒノキは尾張藩の木曽代官が杣【そま】を使って伐採し、木曽川に流送する直営方式だったのだが、爆発的に増大する木材需要に追いつかない。そこで民間の力が必要になる。資金力のある仕出し商人が登場するようになる。都市建設に、木曽ヒノキの果たした役割はあまりに大きい。木曽の森がなければ、江戸も存在しなかったといえるのである。

(たてまつ・わへい 作家)

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日本の歴史を作った森

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立松和平 著

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