野猿来る

長塚京三

 猿が来た。高尾や八王子のはなしではない。スイーツの町とか、プチ・セレブの散歩道などと喧伝されて(して、か)ヤニさがる、私鉄沿線のこの町にである。駅から目と鼻の先、商業エリアの中心からほど遠からぬところに居を構える知人が、深夜庭先で打ち騒ぐ物音に眼を覚まし、すわ曲者かと恐る恐る覗き見れば、隣家との境の塀の上を、親子連れらしき野猿が、何やら頻りに言い争いながら渡り通ったという。

 ついに来たかと、私は手を打つ思いがした。別に予測していたわけではないが、遅かれ早かれこんな日が来るような気がしていたのだ。私は知人に、このことは迂闊に口外しないようにと釘を刺した。「猿だなんて、突拍子もないからね」暑気払いの「面白ネタ」になど、させて堪るかという意識が咄嗟に働いた。ぜひともこれは、私だけの猿にしておきたい。

 実は猿が私の天敵なのだ。四、五歳の頃、町の小鳥屋で(ペット屋とは言わなかった)、売れ残りの(まともな商品だったのだろうか)、いわば店の「ヌシ」的存在であった日本猿に、やおら胸倉を掴まれ、完膚なきまで「ヤキを入れられた」体験が私にはある。

 檻に磔にさせられた体(てい)で、寸毫も身動きならなくなった私を見つけて、小鳥屋の主人は慌てて私のシャツを脱がせ、辛くも私の身柄だけ回収したが、シャツはとうとう戻って来ずじまいだった。のほほんと、平和そのもので暮らしていた私は、それまで何びとからも、犬猫、昆虫からでさえ、これほどあからさまに敵意を剥き出しにされたタメシがなかった。

 半裸で小鳥屋の隅に蹲り、ぐずぐずとベソをかく私は、背恰好といい風体といい、まさに尾羽打ち枯らした一匹の野猿を見る如くであったろう。そしてそのとき、私は確かにヌシ猿の、「貴様とオレと、一体どこが違うのだ」という、全くもって説得力に溢れた、内心の声を聞いたように思うのだ。

 いまやホモ・エレクトゥスとして甲羅を経、引力に対して垂直に立ち居するのが当たり前となった私だが、この頃微妙に、背骨の中心軸がブレてきたような感覚に捉われる。背骨の「張り」が悪くなった。猿族の頭部を圧してその背を屈めさせている、いわば猿に有ってヒトに無い「宿命的な重石」のようなものが、私の頭の上にも伸し掛かってきたようなのだ。察するにこれが、私における老いの正体なのか。

 若く意気軒昂だった頃の私が「辞を低く」しなかったわけではない。ただ頭に重石を載せ、中心軸を歪めて、つまりホモ・エレクトゥスらしからぬ姿勢を取ってまで、諸問題と取り組みたくなかっただけだ。「手から口へ形振(なりふ)り構わず」、あるいは「やってしまった者の勝ち」といった式の、獣じみた野生の発露だけはご免蒙りたかった。丈高く、とまでは言わぬ、せめて真っ当なホモ・エレクトゥスとして、世間に臨みたかった。

 思えば、斯くあれかしと希うだけで、実際にはありもしない土俵を想定して、闇雲に独り相撲を取り続けていた私だったかもしれぬ。だが、いま野猿来るの報を得て、家路を辿る私の歩調はすこぶる軽やかである。夕飯の箸を休めて、ふと窓外に目をやると、そこに野猿の一家が、もの問いたげな様子で佇んでいたりしたらどうしよう。ドキドキする。

 目に見えぬ重石を頭に戴く、我らが先住民の「野生」に、私はどう対処するのだろう。乱暴に軒先から追い払うか、「どうぞ」と食卓に招じ入れるか。あるいは、黙ってホモ・エレクトゥスの背骨を見せて、静かにお引取り願うのか。半世紀ぶりに猿が来た。私の背骨の張り具合に審判を下しに。

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私の老年前夜

私の老年前夜

長塚 京三 著

定価1,680円(税込)