「子ども時間」こそ、スローライフ
筑紫哲也
子どもに話をするのはとてもむずかしい。
だから、私はそういうお誘いは極力辞退してきたのだが、のっぴきならぬ事情から、年に何回かは高校生を前にして話をする機会がある。
自分にとっては普段はやらない挑戦だから、それはそれで興味深いことがあり、発見もある。大人たちの先入観とちがって、他者のために何かをしてあげたいという「利他心」の持ち主が私の子どものころよりずっと多い、というのも発見のひとつである。
それでもむずかしいと思うのは、知識、経験、それに日本語の能力の未発達な相手だからという理由からではない。もちろんそれがないとは言えないが、いちばん基本的なことから話さなくてはならないという時、それは自分の確かさを試されるからだ。
たとえば、グローバリズムとITとが相俟って進行中の剥き出しの資本主義、市場原理主義を私たちは「弱肉強食のジャングル」にたとえることが多いのだが、本当に野生動物が生きるジャングルはそんなにひどい所なのか。
辻信一氏がかかわってきたミツユビ・ナマケモノの話などを読むと、心やさしい生きものが生態系を成している。私がアフリカで見たライオンも、どちらかと言えば怠け者で、必要なだけしか獲物を取らない。
熱帯雨林を焼き払い、先進国では食べきれない食料を捨て、肥満に悩む人が多いというさまは、人間のほうがよほど凶暴で、それをジャングルにたとえるのは、そこで生きる動物、生物に失礼ではないのか。
モノ、カネを求めて、どこまでも効率とスピードを上げて行こうとする、そういう人間のやり方に疑問の声を上げ、批判するのは文明論、文明批評という大仕事である。
それを子ども、若者たちに向かって、彼らにわかるように問いかけるというのはもっと自分の力量が試される。だが、未来を担うのは彼らなのだから、とても大事なことでもある。大変だが大切な仕事なのである。
辻信一氏のこれまでの著作が素敵なのは、そういう大テーマをさらりと力みなく、実例を示しながら描き出すところなのだが、中高生向けに書かれた『「ゆっくり」でいいんだよ』はさらにそういう魅力に磨きがかかっている。それでいて、こういう言い方は奇妙に聞えるかもしれないが「体系的」「根源的」にテーマが提示されている。
それは、子どもたちに向かって語りかけるというむずかしさが生んだ技だとも言えそうだが、だれもがそういうハードルを超えられるものではない。私は同じテーマで『スローライフ——緩急自在のすすめ』(岩波新書)を上梓した身としてそれを実感する。もちろん、それは大人向けの小著なのだが、それを子ども向けに書け、と言われたら七転八倒するにちがいない。
「時間」と「愛」との関係について書かれた素晴しい描写(第一部第四章)などを読むと、とくにそう思う。
大人にとっても読みながらさまざまな感想と連想が湧く、文字通り示唆に富んだ本だが、私なりの所感を述べさせていただくと、子どもたちに「ゆっくり」でいいんだよ、と大人が言うためには、子どもたちが本来持っている生き方
——「子ども時間」——を尊重する他ないと思う。それさえ叶えてやれば、どうやって「ゆっくり」するか、大人がいちいち指図せずとも、彼らは大人よりもっと多彩に、ゆったりと時間を使いこなせるはずだ。
それを許すためには、大人、とくに親たちの「覚悟」は要るだろう。自分たちは果して、自分の時間を持っているのか。そんな時間の使い方をして幸せなのか。スローとファストの「時間」の使いようについて、自己省察が要る。
そのために、むしろ大人、親たちに読んでもらいたい本である。
(ちくし・てつや ジャーナリスト)