お世継ぎと民衆

鈴木理生

○きっかけは光悦の書  

 本阿弥光悦とその家系の構成に興味を持ち始めたのは、約二十年前の昭和天皇在位六十年記念「日本美術名宝展」であり、そこで光悦と俵屋宗達の合作「鶴下絵和歌巻(つるしたえわかかん)」を見たことに始まる。約十四メートルの長大な絵巻の全面展示で、金銀泥で描かれた〈千羽鶴〉の姿態の変化が連続する波の流麗さと、それに重ねられた光悦の誤字脱字を意ともしない奔放な筆跡が強く印象に残った。  

 また光悦は東京・大田区池上の日蓮宗の大寺・本門寺正面石段下の大門に、藁筆で書いたような「本門寺」の額字も書いている。いかにも京の「法華大将」の後裔らしい、野性味のある筆跡に見える。  

 それはさておき、既成の本阿弥一族の略系図を見ると、濃厚な血族結婚を重ねたように読める。だが女性=母系中心に一族の関係を書き直してみると、現代的にいえば両性平等以上に女性優先で家系が継続したことが推測できる。  

 それに目を覚まされて、いわゆる公的な系図書の多くを女性中心に再編成してみると、十三世紀ころまでは、例えば大陸の漠北地方から日本列島に至るいわゆる北東アジア地域には、共通的に強固な女性=母系尊重社会が分布していたことがわかる。  

 いいかえると有力氏族の系図に、日本では「女子」とだけしか書けなかった場合は、その女子を中心に、同世代の男、その子と孫世代くらいの範囲までに、性的関係の存在を推察させる場合が多い。  

 それほど血縁の継続は困難だったのである。小著『お世継ぎのつくりかた』の原形はこの発見から始まった。  

 話を光悦に戻すと、家康の意志により光悦一族は西陣の中心から洛北・鷹が峰に〈所払(ところばら)い=追放〉された。その前後で、彼の筆跡は一大変化をしたのかもしれない。のちに大田南畝が「筆跡は名のみにて志をいはず」と、〈寛永の三筆〉の一人光悦を批評した例もある(小著一五八ページ図7の説明)。

○ゲストハウス(長屋)の生活  

 翻って、江戸時代の「お世継ぎ」を必要としない一般民衆の日常生活の実態、とくに都市生活における具体例を、膨大な市井の出版物で調べてみると、昨今何かと話題の団塊世代を産んだ父母の世代が〈教えこまれ〉ていた「わが国固有の家族制度」や、日常生活を営む場としての「家庭」や「マイホーム」の実態がほとんど見られないことに気付く。  

 最近、連日大事件のように報道される親の子殺し、子の親殺し、そして飲酒無免許運転の事故同様の〈無礼討ち〉〈傍杖(そばづえ)〉などや、同性愛と異性愛が渦巻く場面での「恋の立て引き」などの話題は、当時も今と同様に娯楽として一般に提供された。人の命は〈一銭五厘〉以下の安さの江戸時代。人々はその安さにシビレ、多様な性の蜜に浸れるゲストハウス生活を満喫した。

 「月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、行かふ年も又旅人なり」と、すでに十七世紀末にわざわざ断って旅に出た「俳聖」を戴く我々の現代生活は、3DK ~ 4DKのマイホームならぬ性別・血縁・K抜き、家族団欒の食卓抜きのゲストハウス暮しを、無意識に再現し始めている。民族のDNAの組み合せは一朝一夕には変化せず、ニートがその尖兵のようにさえ思える。  

 蛇足だがこの場合のゲストハウスは家における客間ではなく、時の合間に人が生き続ける時間と空間を意味する。その維持管理は利用者が料金を払えば得られる場所であり、「行かふ年(時間)も又旅人(ゲスト)なり」というお世継ぎ無用の「生の営み」方があった。  

 家康は武家の統治方式として、男子世襲を制度化した。しかし、それ以外の人々の血脈・家系の継続方式には手をつけなかった。「俳聖」がフリーパスで道中旅行可能だったのもまた一つの統治システムだったのである。

(すずき・まさお 都市史研究者)

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お世継ぎのつくりかた

お世継ぎのつくりかた

鈴木 理生 著

一番の好物は「のり」、初夏には梅干を漬け、貯めたマイレージで福岡に飛び古道具屋めぐり。おいしい好きでお酒好き。人気スタイリストのさっぱりして気どらない毎日。

定価1,785円(税込)