漱石がとり憑かれた「二十八」

熊倉千之

 〈車のトランクにピンポン球がいくつ入るか〉――その数からトランクの容量を割り出して、この車にはこんなに荷物が積める、と宣伝しているのを見たことがあります。十六世紀はヨーロッパの「大航海時代」、イギリスの一貴族が、船倉に最も効率よく丸い砲弾を積む方法をある数学者に相談したことから、この問題がいわゆる「ケプラー予想」といわれる数学の難題であることが知られるようになったと言われます。直感的には八百屋の店先のリンゴとかオレンジの積み方が最も効率的でしょう。自明の理のようですが、その数学的な証明には四百年もの年月がかかりました。一九九八年になってやっとミシガン大学の若い数学者トム・ヘールズがコンピューターを使って証明することが出来たのです。  

 ぼくが『明暗』を最初に読んだのは、そのミシガン大学で日本語の古文と現代の短篇小説を教えていた一九八〇年のことです。難解な『明暗』精読は同僚と二人だけの読書会でのことでした。その時ぼくがどこまで読めていたかは全く記憶がありません。しかし、あの時何かを「発見」して「昂奮」したという記憶がない以上、大して読めてはいなかったでしょう。十数年後日本の大学で、前回とは別の同僚との研究会で漱石を読み返していたとき、突然『明暗』について「ケプラー予想」まがいの「大発見」をしたのです。本書で詳しく分析した「二百二十八」という、『明暗』が完結するはずの最終回の数字です。  

 この「鍵」が見つかってからは、『明暗』のテクストの隠された意味が次々に、ほとんど「天然自然」に見えてきました。漱石があと一月半足らず生きていて、この小説が完成できていたら、こんなに明々白々な小説はないと断言できる程、本来の『明暗』は、誤読の可能性がない明晰な小説になるはずだったのです。本書『漱石のたくらみ』を書き終えて想うことは、この発見にはぼくが一九六〇年代にアメリカの大学で、いわゆる「構造主義」をたたき込まれたのが役立ったということです。テクストの「形式〈signifier〉と内容〈signified〉」の不即不離の関連性こそ芸術の価値そのものなのだから、作者のことなど考えるな、というように教わったのです。絵の展覧会でも、絵の横に貼ってある画家名や制作年などを見てはいけない、と。これが西欧の「テクスト論」の理念だったことがあとで判ったのですが、本書ではその「テクスト論」を批判できるところまで、僕の読みも深まりました。

 『明暗』は、完成できずに終わった最後の部分に、劇的などんでん返しを「たくらんで」いました。漱石の分身である津田は、温泉宿の仲居さんに「生れ変りでもしなければ、誰だつて違つた人間になれつこない」と言われます。「生きてる癖に生れ変る人がいくらでもある……お望みなら逢はせて遣つても可(い)いがね」(百八十四)と、皮肉にも己の「変身」を津田は予言してしまいます。これが紛れもない「結末」の指標です。その解読に必要な情報は、航海中に沈没したかに見えていた『明暗』丸の船倉に山と積み込まれていたのです。『明暗』がすばらしいのは、漱石が近代的自我の「一切を脱ぎ棄て」て、自己改造を成し遂げたことを読者に伝えるだけでなく、「西欧化」を目指す「近代小説」もその「一切を脱ぎ棄て」なければならない現況の、優れたメタファーになり得ているからです。  

 日本語の「語る声」と文学における「客観」との問題が『明暗』のあとに残されました。日本語による言説の今後の難題です。  

 ぼくの車のナンバーは「1915」で、偶然ですが漱石が『道草』を書いた年がついています。この車のトランクに「二十八珊(サンチ)の弾丸」(『吾輩は猫である』四)を積めるだけ積んで、「寒月君」をナビゲーターに、次の『道草』論で文学テロを展開するつもりです。

(くまくら・ちゆき 文芸研究者)

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