飛びかかること、繋ぐこと、ふり返ること

小林エリカ

 私は今、フランス、マリー・スル・セーヌという、モネの絵のように美しいセーヌ川のほとりにある、小さな村に滞在している。そこのリビングで、私は今、レバノン空爆にまつわるニュースを見ながら、ゴキブリについて考えている。

 「あなた方は、ゴキブリを殺すことをなんとも思わないが、ちょっとでも、ゴキブリの身になって考えてみたことがありますか」。なだいなださんは問いかける。

 「軍需産業は敵を作り、敵への憎しみをあおり、そして自分の作る武器の残虐性をわすれさせる。それと同じで、ゴキブリ退治の薬を、黒光りした大型の昆虫に噴射させている消費者は、自己の残虐性を一瞬忘れている」。  

 私はここマリーで、殺されたり勿論爆撃される心配もなく、ドアには鍵さえかけず、翌朝のごはんや恋人のことなどを暢気に悩みながら、実に平穏に暮らしている。東京に戻ったところで、こことの違いは鍵をかけることくらいなものだ。

 けれど、世界ではこのおなじ時にも「戦争」をやっている。もしかすると、私は、もはや、今、ゴキブリを殺すことをなんとも思わないどころか、流しの下に置いたホウ酸団子のおかげで、自らがゴキブリを殺しているのだという事実にさえ、無自覚なのかもしれない。私たちはまず、自分自身がゴキブリになってみることから、はじめなければならない。  

 なださんは、それを実にユーモラスに、爽快にやってのける。遠い戦争も、大きな国家や、愛国心といった言葉も、なださんの手にかかれば、ゴキブリ並みにぐっと身に迫ってくるのだ。

 「国を愛するのは当然でしょう。愛しちゃあいけないんですか」「でも、母ちゃんも、国も、同じように愛せると思う?」という床屋談義から、後には、「国のために死ぬ」は「小泉首相のために死ぬ」ということ。「小泉のために死ねるか。命を投げ出せるか」。そう考えてみたら?とずばり言われると、目が覚める。「人間の心理を研究したものには分かる。人は愛せる。ものは愛せる。仕事も愛せる。具体的なものは愛せる。だが、抽象は愛せない」。精神科医でもあるなださんの鋭い洞察には説得力がある。  

 靖国問題、政治、歴史から、カタカナ言葉、スーイッチョにいたるまで。本当はわかったつもりでわかっていなかったこと、難しいからといって考えることさえしてみなかったこと、あまりにあたりまえすぎて気づかなかったことなどが、実に軽やかに、そして刺激的に語られる。  国は政治は歴史は、難しい言葉で、勉強の大好きな人たちだけが動かすものじゃない。私の、今日は、昨日は、明日は、歴史や国や政治と繋がっている。そんな、あたりまえだけれども、忘れがちなことに、私は強く気づかされる。  

 なださんは、私たちの「あたりまえ」に飛びかかり、大きなものと小さなものを、こことよそを、私のいる場所と戦場を、軽やかに繋げ、結び、目の前に照らし出す。 「いつかはまた、憎むときがくるものとして愛し、いつかはまた、愛する日がくるものとして憎め」。前編にあたる『人間、とりあえず主義』であげられたエラスムスの言葉。  

 人ははるか昔から、どうやったら戦争をやめることができるのかを考え続けていたのだ。 『ふり返る勇気』。  

ふり返る勇気。私たちに今必要なのは、ふり返ること。  

 私はレバノンのニュースを見続けながら、ゴキブリを、レバノンを、イスラエルを、日本を、国を、政治を、歴史を、そして、自分を想う。私たちは、ふり返る勇気さえ持つことができれば、そこには、過去が、知識が、歴史があり、少なくとも、それを知ることはできるのだ。

 「ふり向くと、その思い出が、ぼくに常に未来を指し示す」。 なださんは過去と今を、そして未来を、自在に繋いでみせながら、私たちに勇気と希望を与えてくれる。

(こばやし・えりか 小説家)

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ふり返る勇気

ふり返る勇気

なだいなだ 著

定価1,470円(税込)