北村 薫

 その頃——が、いつを指すか、久世先生の読者になら、説明を加えるまでもない。子供時代を、その頃、過ごした向田邦子さんや青木玉さんは、使う《言葉の匂いがどこか似ている》——と、この本に書かれている。「ドラマの中の言葉」の一節だ。文は、こう続く。《時代の匂いとでもいうのだろうか、ふんわりと温かく、品がよくて懐かしい》。

 そういう温かさにくるまれた目は、発熱し、木枯らしの吹く外に行くことを許されず、首まで布団をあげて寝ている弟のもののような気がする。身内から、湯のようにじわじわと熱が湧き出し、胸も首筋も汗が伝う。額には、濡れた手ぬぐい。家には、姉がいる。《どうしたのかな》と思う頃に現れては、熱くなった手ぬぐいを取り、枕元の、古新聞の上に置かれた洗面器に浸し、絞っては、また額に返してくれる。乾いたタオルで、汗なども拭き取ってくれたりする。替えの下着も持って来てくれる。何もかも、されるがままになっていると、気持ちがいい。

 彼女はまだ、《才媛》などという言葉を耳にしたことのない年頃だ。だが、後には否応無しに、そう呼ばれるようになる。いうまでもなく姉より年下の少年なのだが、彼には何故か、それが分かっている。

 友達が来た時、ちらりと姿が見えたりすると誇らしくなるような美しい人だ。しかし、そういう姉が、思いがけない時、思いがけない意地悪をしたりする。——口元に、光るような笑みを浮かべながら。普段は、おとなしやかな姉だ。少年はそういう笑みが、ひょっとしたら自分だけに向けられているのではないかと思う。すると、姉という庭の、秘密の一隅を覗いたように胸がどきどきしてくる。ひょっとしたら、姉の美しさは外見以上に、こういう内から滲み出てくる、何かなのかも知れない。

 ——この本のページをめくりながら、こんな空想をした。読み終えて、何人かの方に聞いてみた。

「久世先生の書かれた文章で、犬養道子さんが、弟を怖がらせる話があったでしょう? ほら、弟さんが風邪なんかひいて横になっている。そういう時、前の廊下を、虎の皮を被って、四つん這いで行き来して見せるんです。虎の皮なんか、どこにあったかって? 応接間の敷き物ですよ。—— 弟は、この世のこととは思えぬ恐怖に、戦慄するんです」

 確かに、そういう文章を読んだ記憶があった。だが、わたしには、出典が分からなくなっていた。犬養道子さんについては、今更、説明もいるまい。榊原喜佐子さんの『徳川慶喜家の子ども部屋』(角川文庫)には、女学生である犬養さんの像が見事にスケッチされている。小夜福子、マレーネ・デートリッヒ、ゲーリー・クーパー、双葉山が大好きで、英語力は抜群。女子学習院の教壇の上で、下履きの靴に履き替え、タップダンスを踊ってみせたりする。実に魅力的だ。

 そういう人が、まだ小さい頃、さらに小さい弟を、そうやって脅す……というのが、いかにも久世先生の紡ぎ出しそうな情景に思えてならなかった。熱にうかされた時、姉の見せてくれる《虎》は、まさに黄金の毛並みを持った、恐怖そのものである。それは、これから歩む人生かも、あるいは世界そのものかも知れない。あるいは、それらの現実以上に現実的な、何かかも知れない。

 久世先生も、その文章を書きつつ、同時に《虎》を見ていたような気がして、《あれは、何に載っていましたっけ?》と、多くの人に聞いて回ってしまった。結果として、お騒がせしただけで、答えは分からなかった。申し訳ないことをしてしまった。わたしの勘違いだったのだろう。

 ただ、これは、そういうことを聞き回らずにはいられないような気にさせる本だった。本とは、『むかし卓袱台があったころ』である。

 久世先生の、掛け替えの無い本の一つ『美の死』と共に、これが、ちくま文庫の棚に並ぶことが、とても嬉しい。

(きたむら・かおる 作家)

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むかし卓袱台があったころ

むかし卓袱台があったころ

久世 光彦 著

定価630円(税込)