二一世紀のケインズとハイエク

江頭 進

 間宮陽介の『ケインズとハイエク』が最初に刊行された一九八九年から、既に一七年が経過した。当時はようやく日本語版『ハイエク全集』の刊行が始まったばかりで、ハイエクにかんする書籍は『隷従への道』や『科学による反革命』などの翻訳と概説書が何点かあるだけであった。実際、経済学者ですらハイエクの名を知らないこともあった。初めて『ケインズとハイエク』を手にしたときは、私はまだ経済学の勉強を始めたばかりの大学生であり、間宮の意図の半分も理解できなかったと思う。しかし、当時としては、大学生の知的好奇心を満たしてくれる数少ないハイエク研究書であった。

 もちろん、その書名が表しているように『ケインズとハイエク』はハイエクのみの研究書ではない。むしろ、内容的には、ケインズの方に共感しているようにさえ見える。しかし、ケインズとハイエクを語る場合、何も知らないとその対立構図ばかりに目がいってしまい両者の間には共通点が多いことが忘れられがちである。ケインズの『貨幣論』とハイエクの『価格と生産』を基礎として行われた激しい論争は、実は両者の間に論争可能な共通の基盤があったことを物語っている。また、ケインズが『隷従への道』についてハイエクに送った手紙(ケインズは、ハイエクが贈った『隷従への道』をブレトンウッズ会議へと向かう船上で読んだ)では、「あなたは私がここで述べられている経済学のすべてに同意するとは思われないでしょうが、道徳的、哲学的には全体的に同意します」と述べている。ケインズはけっして市場の否定者ではなかったし、ハイエクは無制限な自由の信奉者でもなかったのである。

 それでは、ケインズとハイエクの間の決定的な違いは何だったのか。間宮は、両者の公私の考え方の違いにあると考えている。「公共性」の問題は、ここ一五年ほどの間宮の中心的な関心の対象であり、本書の文庫化に際して新たに付け加えられた「補論」では、この点が特に強調されている。私は両者の公私の考え方の違いの理由は資本主義観の違いにあると考えている。ケインズもハイエクもともに、所有と経営の分離に特徴づけられる法人資本主義社会の特徴を的確に捉え、そこに生じる問題(守銭奴的無秩序化や極端な富の一極集中など)も理解していた。ただ、ケインズは、その問題の解決に、政府と社会的存在にまで成長した大企業の役割を考えたのに対して、ハイエクは法人資本主義の問題は、形式的な企業の所有者(株主)に対して過剰な権利を与えすぎていることに起因すると考える。他方、ハイエクは、大口の投資家(機関投資家)の株主総会での議決権の停止を主張する。ハイエクは市場が理想的に働くには、市場の参加者すべてが理想的に自己利益を最大化できるような環境の整備が必要であると考える。しかし、両者ともいま目の前にある資本主義社会が理想的なものではないという点で一致している。

 間宮はハイエク的な「古」自由主義には賛同しない。ケインズに対しても距離を置いているように見える。だが、間宮の問題意識はそこにはなく、むしろ現代の「新」自由主義経済に生きる人々が、ケインズやハイエクが共有していた資本主義社会の限界に気がついていないことにある。ケインズは資本主義の問題点ゆえに、政府の介入を必要なものと考え、ハイエクは市場の参加者にそれらの困難を甘受する決断を求めた。ところが、現代にはびこる資本主義の解決能力に対する楽観主義自体が、冷戦終了後一五年以上たった今でも続く様々な問題の原因になっていることに人々は気づいていない。二一世紀の『ケインズとハイエク』は、今を生きるわれわれにとって、問題とすべきなのはケインズとハイエクの差異ではなく、むしろ根底で共有していた社会観にあると教えている。

(えがしら・すすむ 小樽商科大学助教授)

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増補 ケインズとハイエク ─〈自由〉の変容

増補 ケインズとハイエク ─〈自由〉の変容

間宮 陽介 著

定価998円(税込)