落語で江戸の何を見るか

京須偕充

「とっておきの東京ことば」(文春新書)は去年初夏の作で、私の少年時代まで、とは戦後十数年の頃までなのだが、東京・神田あたりにまだ生き残っていた明治育ちの人たちが日常に使い、いまでは耳遠くなった「ことば」数十をあげて、江戸っ子、旧東京人の気性や暮らしぶりを綴ったものだった。
「ことば」への関心が高いということなのか、これは少しばかり注目されたようで、秋には文化放送の二つの番組に招かれて、あたかも私自身が東京下町の古老のような話をさせられ、暮れにはNHKラジオ第一放送の「ラジオ深夜便」でたっぷり時間を頂くことになっている。
 じつは、もうひとつ前に書き溜めておいた原稿があった。それが縁あってちくま文庫から出版される運びになった。書きたてホヤホヤとは言えないが、書き下ろし文庫という次第。これは、古典落語の名作から、決まり文句のように耳に残るフレーズを選んで、江戸東京人の気質や生き方についての私見を述べたものだ。タイトルは「落語で江戸のうらおもて」。
 これをベースにして落語色を薄め、実生活で耳にしたことばをテーマにした原稿が一足先に活字になったのだが、そのいきさつはともかく、この文庫化によって、結果的には落語に回帰したことになる。こんどは私の耳に残る「ことば」ではなく、志ん生や志ん朝の録音で誰もがいまなお聴ける「ことば」を材料にしている。
 だからといって、これは「ことば」の本ではない。むろん論でもない。古典落語は生ける江戸語事典だとか、落語を聴けば江戸の事物風俗がわかるといった勘ちがいがはびこっているようで、落語家にもそう信じている手合いがいるほどだから、ビル街をグループ散策して落語にゆかりの地をめぐるといったカルチャー・トリップなどは商売繁盛らしい。
 講談や浪曲とちがい、根も葉もない話が売りの落語は人名も熊だ八だと類型化したがるのだから、場所や地名は噺と演者の都合で決めているにすぎない。それなのに、三百年とやらの伝統の威光でそれが第三の真実のように扱われてしまう。才能ある演者の歯切れのいい語り口が江戸のことばそのもののように思われるのも無理とは言えないのだろう。
 だが、落語は江戸ことばを後世に伝えるためにある芸能ではない。江戸を舞台にした噺が中心だから登場人物に江戸者らしいことばを使わせてはいる。それはしかし、時代ごとの聴き手の大方が“江戸らしい”と納得することばで充分なのであって、落語家が苦心を払うのはもっと別のところであるはずだ。志ん生と志ん朝とでは、ことばは自ずとちがっている。
 題材を落語に求める以上、まずは「ことば」から出発するものの、私はいつもその内側にある心理に、そういう人物に託された江戸東京の気質や土地柄に着目する。ことばがめまぐるしく変貌しても、いまなお日本各地の人間的風土がむかしの尺度で測られるように、気質、気風、土地柄の根幹はそう簡単に変わりはしない。すぐれた落語家はそれぞれの時代にそれをどう表現してきたのか。
 武家の都江戸では町人にも潔さや端的な物言いが求められ、それが独特の江戸っ子像を育てたと私は見る。階級間の意志の疎通を図るために相手の心理を探り、周到に先手を打つ話法も研ぎすまされた。八代目桂文楽の『厩火事』での説得の殺し文句は「あたしのほうがちがっているかも」だ。そんな気配りが通じない場合にのみ、江戸っ子は『大工調べ』の啖呵へと走る。
「落語で江戸のうらおもて」とは、こういうことなんです。でもね、自分のほうに非があるかも流は大阪では、いまの東京では、ましてニューヨークでは通用しない。
 落語から日本人のうらおもてを発見することも出来ますな。

(きょうす・ともみつ 演芸プロデューサー)

前のページへ戻る

落語で江戸のうらおもて

落語で江戸のうらおもて

京須 偕充 著

定価714円(税込)