君は芸術を知っているか

布施英利

 いまパリで、この原稿を書いている。とはいえ「いまパリで」などといって気取っているわけではない。ようするに締切りに間に合わず、海外にまで仕事を持ち込んでキーボードを打っているのだ。
 今日まで、スペインからフランスへと旅してきた。アルタミラ、ラスコーや、その近くのいくつかの洞窟壁画を見た。主要都市の間は列車で移動し、レンタカーで千キロほど走った。旅はスペインのバルセロナから始まり、日本への便に乗るため、いまパリにいる。
 この旅の始めと終わり、つまりバルセロナとパリで、ピカソ美術館に行った。バルセロナはピカソが青春時代を過ごした町で、ピカソ美術館には、彼の少年期の絵の多くが展示されている。美大の受験生が描いたデッサンかと制作年をみると十歳の作だったりする。小学生の絵だ。また、十代半ばには油絵の大作を描いている。すでに風格があり、充分にプロの絵といえる。
 パリのピカソ美術館には、彼の生涯にわたる作品がバランスよく収蔵されている。こちらはピカソの死後、相続税として「物納」されたものだ。ピカソ作品の最大のコレクターはピカソ自身だといわれる。息子の肖像など、彼が愛した作品は誰にも売られることなく手元にあった。幸せな私生活をうかがわせる絵が多い。
 ところで私、ちくまプリマー新書から『君はピカソを知っているか』という本を出した。本が完成したとき、ちょうど二つのピカソ美術館を再訪できたわけだ。美術館に立って、心の中で、本の上梓を報告した。ちなみに一年前、『君はレオナルド・ダ・ヴィンチを知っているか』という本を出した。今回の「ピカソ」とは、はじめからセットの企画として考えていた。
 ダ・ヴィンチとピカソの二人は、ずいぶんタイプのちがう芸術家である。だからその両極端ともいえる二つの世界をおさえれば、芸術の「見取り図」はモノにできる。入門書的な新書であるが、それをかたちにできた。
 ところで「ダ・ヴィンチとピカソは正反対のタイプの芸術家」と書いたが、それは表面的な話にすぎない。今回、スペインとフランスの先史時代の洞窟壁画を見て、それを確信した。原始の洞窟画には、人類の芸術の「すべて」がある。これは、実際に洞窟に入って、その闇と、岩の壁の冷たさと、「神聖」としか言いようのない静寂な空気にふれてみないと分からないが、芸術というのは、そういう洞窟で生まれた。芸術だけではない。宗教も、ヒトの精神活動のすべてもが、ここで培われた。それが何万年という時間の単位のなかで、ヒトの心に染み付いた。しかし私たちは、それを忘れている。たいていの芸術は、数十年、あるいはせいぜい数百年という単位でしか世界をみていない。しかしそれは数万年という時間からすれば、わずかである。
 ところが、この「数万年」という時間を自由に行き来した芸術家がいる。それがピカソだ。アルタミラの洞窟を訪れたピカソは、その絵にいたく感嘆したという。ピカソの絵画は難解で革命的といわれたが、彼の作品ほど先史時代の美術と深く通じているものはない。石器時代の画家は、岩の凹凸を牛の体の凹凸に見立てたりした。こういうマジックは、たとえば自転車のサドルとハンドルで牛の彫刻を作ったピカソと同じやり方だ。また洞窟壁画の「科学的」ともいえる動物の描写と、的確な輪郭。これもピカソ芸術に通じる。
 レオナルド・ダ・ヴィンチもそうだ。ルーヴル美術館の「岩窟の聖母」など、なぜ岩窟なのかと思っていたが、これも先史時代の記憶、とでも解釈すれば納得できる。
 天才芸術家は、数万年というスパンで世界をとらえていた。そういう視点で芸術の歴史をみると、これまでとはちがった美がみえてくる。ほんとうの芸術とは、そういうものだ。

(ふせ・ひでと 批評家)

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君はピカソを知ってるか

君はピカソを知っているか

布施 英利 著

定価798円(税込