【追悼・永沢光雄】
フィクションとノンフィクションの彼方へ

本橋信宏

 高田馬場四丁目の居酒屋で、ひとりはしゃぐ男がいた。
 知り合いの編集者でもなければ、ライターでもない。けれど、昔、何度か見た覚えがある。
「うちの会社辞めて、ライターになった、永沢光雄ってやつだよ」
 白夜書房から出ている「ビデオ・ザ・ワールド」(現在はコアマガジンより)の中沢慎一編集長が私に教えてくれた。
 永沢光雄氏の酔いっぷりは、下戸の私から見ても本当に楽しそうだった。それからしばらくして「ビデオ・ザ・ワールド」誌上に永沢光雄の連載がはじまった。後に一冊にまとまりベストセラーになった『AV女優』の原点である。
 同誌にはすでに私もインタビューを連載していた。信じられないことだが、連載をはじめた二〇年前は、AV女優に私生活を訊くのはタブーとされていた時代で、初体験話も話したり話さなかったり、当人次第。メジャー誌では色物ページとして、適当に記者が創作するケースもあった。こちらが親の話を聞こうとすると、隣に座っている強面のマネージャーに「どうしよう?」といった顔で助けを求める女の子も珍しくなかった。当時、私はデビュー直前の一八歳の新人AV女優とつきあっていたこともあって、彼女の内面を知るためにも、同誌のインタビューは他人事ではなかった。
 やっと、私生活や親の話、恋人の話を聞き出せるような流れになり安閑としていた私にとって、永沢光雄の連載は衝撃的だった。インタビューというよりも物語になっている。彼女たちをよりよく理解するために、手法は毎回変化に富んでいた。
 私が決定的に打ちのめされた一編は「倉沢まりや」編だった。私も彼女と話したことがあるが、男が勘違いするほど媚態的な子である。永沢光雄は、彼女を描写するのではなく、彼女がさんざ手玉にとり、人生を過たせた男たち、高校の教師、やくざ、ホスト、サラリーマン、実弟、といった人物群から見た倉沢まりやを物語ることで、倉沢まりや像を見事に描ききった。この一編で、永沢光雄は“視点の移動”という高度な技法を用いている。
 また『AV女優』には収められていない一編では、裏方の立場であるマネージャーが、抱える女の子の未来を思い、あえて泥をかぶるときの葛藤を“神の視点”で描ききった。
 天才だと思った。数時間のインタビュー原稿をもとに、毎回毎回短編小説のように物語る力量は、永沢光雄にしかできないものだった。後にも先にも永沢光雄ほど表現の可能性を高めた書き手はいなかった。私は、文章修業をしている若者に、いつもこの二編をお手本にするようにと、勧めたものだ。
『AV女優』は、AVを一本も見たことがないような作家、評論家が激賞し、AV業界、とりわけAV監督たちは黙殺に近かった。嫉妬もあったのだろう。藤原新也氏の書評、「日本の戦後家族のありようが、その生々しい言葉によって語られているのに気づかされる」という一文をあげて、あるAV監督が「ここまで言って大丈夫なんですか」と、私に言った。この監督は、AV女優たちがフィクションを語る場合があることを知っていた。
 永沢光雄ももちろん、知っていた。永沢作品は、すべてが広義の意味において“小説”であった。永沢光雄にかかれば、ノンフィクションであろうとエッセイであろうと、すべてが最上質の私がたりの小説になっていたのだ。独特の永沢節なのだ。後に小説に専念しようとした永沢光雄には、そんなに小説にとらわれることもないのに、と思った。いまのままでいいのに、と思った。小説なんて、五十過ぎから書けばいいのだ。永沢光雄が小説に進もうとして、ほっと胸をなで下ろしたのは、本気でノンフィクション賞を狙っているノンフィクションライターたちではなかったか。
 下咽喉癌で声帯を失った。名インタビュアーが声を無くしたことで、結果的に小説の世界に進まざるを得なくなった。これを契機に、永沢節が大きく花開くときが来たのだ。私は、病後をそうとらえることにした。その矢先の永久の旅立ちだった。
 あと三冊、永沢光雄の書いた本が出るようだ。そして三冊を読み切った後、私たちは太宰治を読み切ってしまった寂しさにも似た思いを、ずっと味わうことになる。

(もとはし・のぶひろ 文筆家)

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水辺にて

風俗の人たち

永沢 光雄 著

定価819円(税込)