吉村さん、私はこう読みました。

内藤初穂

 ちょっとしたきっかけで物書きに転じて以来、その道の大先輩として吉村昭は私を暖かく見守ってくれた。この遺作エッセイ集『回り灯籠』のどこかにも書かれているように「年長の友人」として遇してもくれた。年賀の挨拶に「年ごとに友情が深くなってゆく感じ。いい気分です。見捨てないで下さい」と記されてきたこともあった。
 その彼が何の予告もなく、ほとんど自死の形で「死顔」を隠しおおせて逝ってしまった。彼なりの美学といえばそれまでだが、彼の死後、吉村論が各紙をにぎわすにつれて、彼の姿はにわかに大きくなり、私の手の届かぬ遠くへ消えてゆくように思えてならない。
 彼はつねづね「エッセイは私の素顔である」と言っていた。私は遠く消えてゆく彼の襟首をつかむような気持で、このエッセイ集をむさぼり読む。一篇一篇の根にある律義でシャイな彼を私のものとして確保しておかなければならないのである。本書の最後に配された城山三郎との対談からは、私の記憶そのままの音調で彼の肉声が聞こえてくるとさえ思う。
 全篇に浮かびあがる素顔のなかで際立つのは、彼に寄りそうようにして自立する作家の妻との日常寸景である。だいたい作家の夫婦というものは、うまくいかないことになっている。それが対談の相手から「両雄並び立つ」と保証され、彼自身は「二人でね、俺たち奇跡だなって言うもの」と自認する。家では小説の話を一切しないのが奥義のようだが、それにしても、二人のありようは、うらやましいほど暖かい。
 贈られてきた朝顔に彼が水をやり、妻が時に肥料をまき、家の生活になくてはならぬものとする。旅先で署名を求められたのが妻の小説だったのにも動ぜず、彼は黙って「津村節子内」と書く。視力の故障で駅の階段を踏みはずして病院に運ばれた妻が「怒らないでね」としきりに電話で繰り返すのを「注意してよ」と労り、その後、外出時には妻の手をとり、近くの主婦から「お仲がおよろしいですね」と声をかけられる。夜の酒を九時からと決めている彼は、妻が友人と夕食で飲む酒のお酌役に甘んじ、自分の酒は「おあずけ」を命じられた犬のように我慢する。
 二人の築きあげた二人だけの生活風景が、しみじみとした筆で記録されてゆく。他界の彼自身がこのエッセイ集を借りて、ありし日の思い出を、残した妻に語りかけているようにも感じられる。
 こんな一篇もある。或る日、軒下に置いた冷暖房の室外機に烏がむらがり、殺気立っていた。彼が近づくと、一斉に飛び去った。室外機と外壁との狭い空間の奥に、傷ついた鳩がうずくまっていた。助けだして傷口に赤チンキを塗りつけ、妻が持ってきた段ボール箱に入れた。
 そのうち、庭先にもう一羽の鳩があらわれ、居間に置いた箱の鳩に合図を送るように、少し歩いたり、立ちどまったりする。妻は「番いの鳩ですよ」と言う。傷ついたのは雌らしく、傷が直ったと見て外に放つと、待ち構えていた番いの雄と羽音をそろえて飛び立っていった。
 その後、二羽は毎日のように庭先にあらわれ、彼がまく米粒を仲よくついばんでいたが、ほどなく雄鳩は事故にでも遭ったらしく姿を消し、雌鳩一羽だけとなる。他の雄鳩が寄ってきても、見向きもしない。米粒を一羽だけでついばんだあと、梅の樹の枝に止まり、長いあいだ身じろぎもしない。
 このエッセイは、とりわけ私の胸奥に響いた。消えた雄鳩が彼とかさなった。彼の作品は、概して死者を扱っていて、彼を今日あらしめた小説『戦艦武蔵』からして、死者となるべき運命にある巨艦の物語である。雌鳩を濃やかに労りながら消えてゆく雄鳩の話もそれで、彼自身が死者の雄鳩となった。
 このエッセイ集を校正したのは、残された雌鳩の津村さんだったと聞く。校正中に去来したであろう思いは、私の想像を越える。

(ないとう・はつほ 作家)

前のページへ戻る

回り灯籠

吉村 昭 著

定価1,470円(税込)