美と技の教え

矢田部英正

 冬場になって原稿を思案する日々が増えるなか、キモノのありがたさについて思いを新たにしている。床板の隙き間から縁の下の風が洩れてくる我が家の冬は厳しく、窓の外に伸びた長い軒先が陽射しを遮るので、晴れた日の午前中などは外気よりも家の中の方が寒かったりすることがある。そんな我が家でも、キモノを着て和室に端座して居れば、さほど寒さは気にならず、椅子で机に向かうときのような足元からの底冷えも来ない。首まわりは高さが二寸ほどもある襟が重なっていて意外と暖かいし、腰には帯が幾重にもまわされているので腹を冷やすこともない。あとは袖からの風通しを下着などで遮断すれば、手炙りの一つでも置いてエアコンに頼らなくとも東京の冬くらいは楽に越すことができる。
 木と紙でできた日本の建築が、外気を遮る気密性に頓着してこなかった伝統をもつのは、恐らくキモノに床坐の起居様式を保ってきたこととも深く関係していただろう。「冬はどんなところでも住める」と『徒然草』に書かれた兼好の言葉も、キモノに床坐の生活を少しでも試みると十分に納得がいく。
 私の仕事のなかには「身体技法」というテーマが一つだけ貫かれているが、この言葉はもともとフランスの民族学から生まれた概念で、物質文化との密接なかかわりのなかで発展してきた。物の素材や形から、その扱い方を読み解いていくと、文献にはあまり書かれてこなかった人々の暮らしぶりが具体的に浮かび上がる。そこから民族の特徴や社会の成り立ちを描くのは文化人類学者の仕事だが、私の場合、そういう壮大な学問大系を描くだけの素養はないけれども、身体の技術的な事柄については多少人よりわかる積もりでいる。
 今回頂いた企画のなかでは身体的な技術の中心に「美しさ」の問題が盛り込まれることになった。一見、日本の伝統とは何の関係もなさそうだが、かつて自分が専門としていた体操競技は美を競い合うスポーツでもあって、美しい印象を生み出す技術についても、それを評価する方法についても、独特の思想をもっていた。体操は他の採点競技とちがい技術点と芸術点とを分けることをしない。そうした採点方法を定める根底には、技を高めることと、美しさを磨くこととは別々の問題ではない、と考えた先達の信念がある。美と技とが別々でないからこそ、体操は一〇点という完結した数字のなかで演技の全体を評価する立場を取るのだという教えは、禅の影響を蒙った日本の芸道思想には少なからず通ずるところがある。
 キモノひとつを例にとっても、その裁断方法や着付け、着こなしの作法からは、自然に立脚した身体の美しさがおのずと立ち現れるような「技」が見える。それらの全貌を言葉で写しとることには予め限界が布かれているが、語らずに残された事柄に眼を向けさせる言葉には「不立文字」の心を宿すこともできる。資料や文献をいろいろと当たりながら、「日本美の核心は眼に見えない領域に隠されている」という確信は強まる一方で、それは自分が学んできた学問的な方法によって掬い上げるのにはあまりにも繊細すぎて、粗い理論の駕籠目からは、いつも描きたい美の世界は取りこぼされてしまう。
 世阿弥に学ぶと、舞台上に開く人間の美しさは「花」の一文字に収斂され、「物数を極める心」を花の種としている。
「花は心、種は態(わざ)なるべし」と教える能楽の伝書をいま開くとき、事あるごとに「技は心なり」と色紙に筆を走らせていた学生時代の恩師の言葉を思い出す。一個の果実にもその中心には種があり芯がある。その核芯に到達するためには、周辺に覆われた果肉のすべてを食い尽くさなければならない。技を通して、真実の世界に至る永く険しい道のりを、林檎の果実に例えながら「技は心なり」と諭されたその言葉は、一〇年余りの歳月を経て、自分がこれから進んでいく道に灯りをともしてくれているようである。

(やたべ・ひでまさ 武蔵野身体研究所主宰)

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美しい日本の身体

矢田部 英正 著

定価735円(税込)