お城にゾウはよく似合う

木下直之

梅子
 お城にゾウはよく似合う。
 ここでよくぞ止めることができた、と我ながら感心している。伊達に歳は重ねていない。だって、昔だったら間違いなく、お城にゾウはよく似合うぞう、と書いたに違いないからだ。
「ゾウがなけりゃゾオオロジカル・ガーデンじゃない」(『週刊朝日』昭和三十年十月三十日号)と口にした時、鈴木十郎さんはもういい歳だったが、こちらは許してあげよう。だって、時代が若かったのだから。発言は五年さかのぼって昭和二十五年(一九五〇)の秋、タイ国から小田原にゾウがやってきて、「梅子」と名付けられた時、小田原市長だった鈴木さんはあまりの嬉しさに、つい口走ってしまったのである。
 時代が若いというよりも、生まれ変わったばかりの日本が若かった。武器を捨て、平和国家、文化国家を標榜した日本の未来を建設する担い手は、もちろん子どもたちだった。敗戦後の混乱がようやく一段落した昭和二十五年ごろに、子ども博覧会の開催が全国各地で相次いだ。
 小田原もそのひとつで、小田原こども文化博覧会が同年十月一日から十一月二十日まで開かれている。鈴木市長の開幕挨拶も「再建日本の子供さん方に、ゆたかな夢と明るい希望を与えたい。伸びゆく日本のこどもさん方に、高い知性と、美しい情操と、すこやかなからだを養うための、楽しい施設を贈りたい」(『小田原市報』号外、こども博特集号)と大真面目で、与太なんて飛ばしていない。
 夢と希望を与える役割を「身長四フイート二インチ、体重一二八貫」(同紙)の一身に担って、梅子ははるばる日本にやってきた。いやいや話は逆で、やってきてから梅子になった。博覧会会場となった小田原城址の真ん中に「象の家」が建てられ、それ以来今日まで、実に半世紀を超えて愛されてきた。
 博覧会のころには観覧車があった天守台には、昭和三十五年(一九六〇)になると天守閣が建てられ、さらに梅子の家のすぐ隣に常盤木門も再建されたから、梅子はまるでお姫さまのようである。

姫子
 お姫さまといえば、姫路城には正真正銘「姫子」がいた。やっぱりゾウだけれど。やってきたのは昭和二十六年(一九五一)で、ここでも住まいはお城の中だった。名前を募集したところ、応募ハガキは三千通を超え、二百種類の名前が集まったという。しかし、姫子の名前はぬきんでていたに違いない。なにしろ、白鷺城の異名を持つ姫路城の壮麗な姿は、他のお城を圧しているからだ。この土地で暮らす以上、どうしても姫子でなければいけなかった。
 来日二年目に体重一八〇〇キロだった姫子は、ぐんぐん成長し、昭和四十一年(一九六六)には三一〇〇キロに達している。だから、姫子が空濠に落ちた時には大騒ぎとなった。それは平成四年(一九九二)三月二十七日の出来事で、その二十一日前に、なんと四十一年ぶりに前足の鎖を外されたのだという。そんな切ない話を聞くと、ますますお姫さまに見えてくる。
 それから二年後に姫子は亡くなってしまったが、すぐにまた元気な若いゾウがやってきて、二代目姫子を襲名した。

浜子
「わたしの城下町」遠州浜松でも、昭和二十五年に浜松こども博覧会がお城で開かれた。終った跡地がそのまま動物園になったことまで、小田原に瓜二つだった。ゾウは「浜子」と名付けられた。浜子とともに私は育ったといってもよいだろう。なにしろ小学校も中学校もお城の中、動物園と隣り合っていたからだ。
 お城が遊び場であったことはいうまでもなく、元忍者や元くの一たちと同窓会で再会してみたら、中学校もまた動物園のような場所であったことを実感した。せっかく動物園をつくってもらったのに、あのころの私たちは「高い知性と、美しい情操と、すこやかなからだ」とも縁遠く、まだ人間になりきっていなかった。
 ところで、なぜこども博覧会がお城で開かれたかって? それは城下町がそのころもまだ、そして今もなお、お城を中心にできあがっており、そのまた中心にそびえ立つ天守閣の多くを戦争で失っていたからだ。ぽっかりと生まれた空き地は、一からやり直す場所にふさわしかった。昭和三十年代に入って各地に続々と建設された鉄筋コンクリート製の天守閣は、例外なく最上階に展望台を設け、日本の戦後を見晴らす恰好の場所となった。

(きのした・なおゆき 文化資源学)

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