社会に出るひと、必読の本

森まゆみ

 大学で三年間教えた。いまは三年の後半から就職活動が始まる。各社の給料を比べ、有名大企業にエントリーし、ふるいにかけられると、だんだん目標は低まり、自信がなくなっていく。
 バカいうんじゃない、世界はもっと広いんだよ。就社するのでなく、自分の仕事を見つけなさい、と励ましてきたのだけれど。
 そんな彼らにぜひ、この本を読ませたい。
「仕事をするとは、サラリーマンであれ、フリーターであれ、会社や上司に使われることだ、という「常識」が日本の教育現場と社会に染みついている」
 かつては私もそう思った。男女雇用機会均等法以前、三十通ほどの履歴書を手書きで送り、すべて返され、どうにかもぐり込んだPR会社と出版社で二年仕事を覚えた。社会に出てみると、面白くバラエティに富んだ仕事がこんなにあるのか、と驚いた。それを知るためにもいったん就職するのは無意味ではない。五年のフリーののち、私は三十を前に、地域雑誌を発行する、ごまつぶのような小さな出版社を起業した。そして建物の保存活用、環境の保全をネタに町で二十三年遊んできたようなものである。
 そんな私でもびっくりするような仕事がこの本にはたくさんある。
 バスを飾って走らせる人、企業と企業を合併させる人、不当労働行為の相談を受ける人、古時計を集めて売る人、長距離トラックを運転する人、町中で家族温泉を経営する人、刑務所で木工を教える人、水に浮く家を建てた人……。
「私が訪ね歩いたのは、使われない生き方と、自分の仕事のテーマや方法をみずから切り開いた人たちだった」
 生き方を変えるきっかけはむしろ単純に見える。
 福井県警の刑事だった茂幸雄は、身投げしようとした初老の男女をいったんは思い止まらせた。しかし、二人は無一文で地元に帰る途中、自治体の窓口で冷たくあしらわれ結局、神社で縊死してしまう。人を救えなかったくやしさから、茂は定年後、自殺の名所東尋坊で「心に響くおろしもち」を出す茶店をはじめ、自殺志願者の相談にのる。
 沖縄県那覇市の国吉勇は十七、八歳のとき高校の同級生と近所の壕にいって日本兵の骨を見つけた。「かわいそうに、と思ったのがきっかけです」。害虫駆除の仕事のかたわら、そのもうけをつぎ込んで以来、沖縄戦で死んだ二千体の遺体を掘り出した。「あんた、見つかってよかったね。明るいところに出してあげるからね」とひとり言を言いながら掘るという。
 若い人でも、その行動はみごとにまっすぐ。
 東京都の上田麻朝(まあさ)は、阪神大震災とオウム真理教事件の年、美大の卒業制作で椅子を作った。「オウム事件の信者たちのニュースを見ていて、愛に飢えているのかな、と感じたんです」。どーんと構える父のイメージと、優しく包み込む母のイメージの椅子をデザインした。小さな工房に手紙を書いて就職し、椅子のデザイナーとなり、インドネシアのジャワ島の工芸村でそれを形にしてもらう。一年の半分はインドネシア。
 木工職人だった佐賀市の下幸志(しもこうじ)は、建具の納品に出かけ、山のように捨てられる卵の殻を見た。においはするし、べたべたもする、でも何かに使えないか。これを粉にしてみた。運動場に線を引く石灰のかわりに使える。
「従来の石灰だと、芝生は枯れるし、水を含んだ石灰は発熱するので低温火傷もする。何より石灰を産する各地の山々が掘り崩され、破壊される」。さらに野球の投手が使う滑り止めにも使えないか。「これも、これまでは炭酸マグネシウムで作られ、多くの野球好きの手を荒らしてきた物質だった」。まさに「コロンブスの卵」である。
 著者吉岡忍氏は全国四十七都道府県を軽いフットワークで走り回った。金と名誉の欲さえ捨てれば、納得できる、人の役に立つ仕事がみつかる。そうした人を訪ね、ぴかりと光る一言をすくった。環境、食の自立、教育、医療、介護、人権、平和……それらを見すえる、ぶれない、そしてあたたかいまなざしで。
 へえ、こんな人いるんだな。何度もつぶやいた。

(もり・まゆみ 作家)

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ニッポンの心意気 ─現代仕事カタログ

吉岡 忍 著

定価903円(税込)