「私」という謎の終焉
——『錯覚する脳』の刊行に寄せて

村上憲郎

 最近どうも情報系の学科の人気が衰えてきて困っているという話を、方々で聞く。驚くことにIT先進国の米国においても、コンピュータ学科の人気は一頃ほどでないとのことである。一昔前の大型機を凌駕するような高性能のパソコンが誰にでも手に入る時代を迎えて、素人でも、たやすくそこそこのソフトウエアが作れるようになり、学生達が、コンピュータ科学の基礎を地道に勉強することに価値を見出せなくなっているのかもしれない。
 そこで、情報系の学科に優秀な学生が集まらないと困る立場にいる、つまり、情報系の学科から優秀な人材を採用できないと困る私は、コンピュータ科学がいかに魅力に溢れた興味深い学問領域であるかを機会あるごとに、高校生を中心とした若い人達に語るようにしている。その時の二題噺が、人工知能と量子コンピュータである。曰く、人工知能を構築することを通して「私」の秘密を解こう! 曰く、量子コンピュータを建設することを通して、「存在」の秘密を解こう!
 科学技術の驚異的発展を経験した前世紀を経ても、人類にとっての謎の多くは、残されたままで今世紀を迎えている。その謎の中でも最大のものの一つは「私」という謎であろう。しかし多くの人にとって、この謎は、それほど切実なものとしては、日常的には登場してこない。しかし、死という、「私」そのものが、この世から全く消滅してしまうというベラボウな事態に直面させられる時、人はいやおうも無く、今まさに消滅しようとしている「私」とは何なのかという問いに向かい合わざるを得ないのではないだろうか。
 最大の謎のもう一つである「存在」と共に、「私」という謎は、古今の哲学の永遠のテーマであり続けているように思える。ここで、哲学と呼ぶのは、さしあたり、形而上学を排するという決意がなされて(実態がどうあれ)展開・開陳された思弁の謂いである。
 いわゆる人工知能と呼ばれるコンピュータ科学の一分野は、現行のディジタルコンピュータの上に、人間の知能に相当するものを構築しようという試みと、その本来の試みの中から派生した知見やプログラミング技術を援用して実用的な応用プログラムを作成しようとする試みの両者にまたがるものである。後者は、自然言語処理や知識ベースシステムとして、実用に供され始めてはいるが、人工知能の本来の目的である前者の試みは、全く進展を見せていないと言ってよい状況である。最近注目を集めている二足歩行型のロボットにしても、蜉蝣ほどの知能すら(比べられる蜉蝣が迷惑)持ち合わせていないのである。
 知能が人工されるということは、「私」という謎をめぐる哲学が終焉するということである。後には、「存在」をめぐる哲学が残るだけだ。「存在」をめぐる哲学も、量子コンピュータの建設によって、「存在」とは無限次元ヒルベルト空間のケットベクトルと線形作用素との固有方程式で表される多世界宇宙にわたる重ね合わせであることが、直接的に実証されることにより、間接的に終息させ得るという見通しで、高校生を煙に巻くのである。
 人工知能の研究は、一九五七年に米国のダートマス大学で開かれた研究会から出発したとされる。私は、それから四半世紀ほど経た一九八〇年代初頭に、研究会の発起人の一人であったマサチューセッツ工科大学のマービン・ミンスキー教授に会う機会があった。その時彼は、いたずらっぽく笑いながら、「人工知能なら、あと百年は楽しめるよ」と話してくれた。
 さてそれから、またも四半世紀が経ち、我が日本国、慶應義塾大学、前野隆司教授の、前作(『脳はなぜ「心」を作ったのか』)に引き続き「私」の謎に肉迫する二冊目の本(『錯覚する脳』)が出た。この本で、またまた数年は楽しめそうである。もちろん、前作同様、高校生のコンピュータ科学への勧誘にも大いに使わせてもらうつもりである。ただし、あまり早々と「五蘊非我(ごうんひが)」なぞと「悟られる」のも少々問題ではある。なにしろ、それが全く正しいということが、「受動意識仮説」として、この二冊の本にすっかり記述されているからである。

(むらかみ・のりお グーグル・ジャパン社長)

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